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ちゃんと与えられたもの

「仏心の華咲く道が、すでにしてこの私にも与えられている」[信國淳師]


前回の続きです。

信國淳師は、大谷専修学院の院長をされておられました。信國淳師は、講演にて若い頃を振り返ってこう述べられています。

「私の過ごしてきた生が全くの空過の生にすぎなかったことを、その時私にまで知らせてきたものは、実は"a-mita のいのちを貫く阿弥陀の本願の力だったんです。(中略)そこにしっかりと根を下ろし、その上にしっかりと立ち上がる、そういう「大地」というものを私どもに与えている。それが"a-mita "のいのちなんです。にもかかわらず、私自身の生きている生は、まるで根こそぎにされた草木のように、いのちの大地に根を下さぬ生である、と気づかされたのです。」と述べられています。


さらに信國淳師は、

「南無阿弥陀仏という言葉は、皆さんを離れた仏の名なのでしょうね。阿弥陀仏という仏がどこかにおられて、その仏の名を呼ぶ。そうなると、ただ我の救いを求めて仏の名を呼ぶことになる。だが、南無阿弥陀仏という仏の名はそれをそのまま汝の名として称えなさいという、そのまま汝の自己宣言の言葉として称えなさいという。そういう仏の願いのこめられたものであって、それを本願の名号というのです。」


なるほど、なるほどといかに自分が聞き違いをしていたと思うたのでした。

聞いてもなかなかわからない私が、聞かないでどうして真実の道がわかるでしょうね。

ましてや自分の方へ仏様を持ってきて味わっていても自力の道から離れていくことはできないのですね。親鸞聖人は『正信偈』に、【一切善悪凡夫人】とか、【凡聖逆謗斉迴入】と言われていますが、立派な人も頼りない人も、努力する人も怠け者も、そういう器量や力量、人生のいかんにかかわらず、阿弥陀さまのはたらきの中に自分がいることに気づいた時、どんな人でも「仏心の華咲く道」を歩むことができるのだ。またその道が「すでにしてこの私にも与えられているんだ」と、感じたのです。


とかく人間とは、自分のはからいで人と人とを比較して、自分の殻の中で阿弥陀さまのはたらきを見ようとして、自分はダメだと思ってしまいます。しかしそんな私に【何もかも仕上がっている往生への道を】ちゃんと与えてくださっているのです。

[末本弘然師のお言葉を参照しました]


何もかもすでに仕上げられてある真実の道に気づくことこそが私たちがお聞かせいただくことでは無いでしょうか。

だから、たまにお念仏申しますということてまはないのです。仏さまをこちらに持ってくると、あれほどありがたかった仏さまがボヤけてきます。そうではなかった、私の方を仏さまに預けていくこと、それこそがまかせるという姿ではないのでしょうか。


浄土真宗の生活信条に、

【み仏の誓いを信じ、尊いみ名を称えつつ、強く明るく生き抜きます。】


※称えつつとは、称えながらという意味です。


そうやって阿弥陀さまとこの人生を二人三脚で歩ませていただけば、何を悩むことなんかありましょうか。阿弥陀のおはたらきのままに私を生きていけばいいのだから。安心ですね。ナンマンダブツ、ナンマンダブツ

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