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お聴聞のこころ

皆さま、おはようございます。

今朝も寒いですね。雨が降ったのでしょうか。

春はそんな天気の移り変わりも頻繁にございますからなるようになるものかと思ってそれぞれを素直に受け止めて喜んでいきたいものです。


さて今日は千葉県柏市のお寺さんで布教の仏縁をいただきます。若住職さんは中央仏教学院時のクラスメイトで長くお付き合いさせていただいています。大先生も千葉組(そ)の組長(そちょう)をされていたこともあり、長くお世話になります。とても優しい笑顔でいつも接してくださいます。かなり高齢になられましたが、お元気でいてくださればと願っています。


宗祖親鸞聖人は、【ユルサレテキク、シンジテキク】とお聴聞についてお味わいしておられます。これはどういうことでしょうか。

【聴】は一般に[キク]と読みますが、親鸞聖人は[ユルス]と読みきられます。

まさに仏法聴聞は、[ありのまま、そのまま]に、私が許される[空間]です。

私のために仕上げられた阿弥陀さまの究極の願いが【南無阿弥陀仏】であります。

たった六字の言葉に凝縮された誰にも聞きやすく、誰にでも受け取りやすく、保ちやすいお言葉だというのに悲しいかな煩悩具足の凡夫たる人間は、何故か難しく、受け取りにくいものを好むのです。

今すぐでも間に合う【法】を阿弥陀さまの側からお届けしてくださるのになかなか興味すら示さないのが私たち煩悩具足の凡夫たる者の【無明】たる所以なのでしょうか。


迷いの世界に身を置き、常に[自我]に[執着]せずには生きられない私のために先手の救いを既にお仕上げくださり、煩悩を抱えたままで救われる道を完成してくださいます阿弥陀さまの親心ですが、なかなか素直には受け入れられないのが娑婆世界、無常世界の恒ではないでしょうか。

あみださまは親となり、声となり、名号[はたらき]となって私に呼びかけておられるのです。それなのに人間は日々、真実なる法に背を向け生きていく選択を重ねています。

争いが絶えないのがその証拠であります。


イジメも無くなりません。

パワハラも相変わらずであります。

無視も普通にします。

自分には優しく、他人には厳しい生き方も普通であります。

自分のものは手離したくない、他人のものは欲しいというのも昔から変わらないのでしょう。

何にも人間の本質は変わりません。


それはもうずっと前から阿弥陀さまはお見抜きしてくださっておられます。

人間には真実などありません。それなのに自分は正しいとか賢いとか、地位や資格や経験をいつも盾にして他を裁き、自己を尊んで生きているのです。⚪︎⚪︎儲けの上手い人が尊ばれそれが評価となるというのも太古から変わらないのであります。しかしながら阿弥陀さまはそんな価値観で私たちを判断されているのではないのです。私の無明の眼を開かせ、闇夜のような迷いの中にあり続けようとしている私に阿弥陀さまは優しくはたらいていてくださるのです。


九條武子さまは、

「抱かれて、ありとも知らず愚かにも、われ反抗す、大いなる御手に」と、詠まれておられます。


阿弥陀さまの【智慧のお念仏】が孤独に悲しむ私の居場所であります。

南無阿弥陀仏を称えれば、孤独に悲しみ、悩むことなどございません。阿弥陀さまが常にご一緒に人生を歩んでくださいます。

ようこそ、ようこその世界を知りながら、今日もあなたらしく生きてみませんか?

ナンマンダブツを我が口に称えながら。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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