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お帰りなさい

皆さま、おはようございます。

昨日は体調不良で早く休ませていただきました。最近は日替わりで体調が良くなったり悪くなったりと改めて生きるって大変、そして「老い」、「病」との格闘であります。

しかしながら出来ることを精一杯頑張っています。

さて入院していた愛車が修理されようやく退院してきました。私のために傷ついて壊れてしまった大切なものが戻ってくると安堵しました。


生きるということは、誰かに借りを作ること、

生きていくということは、誰かに借りを返すこと、誰かに借りたら誰かに返そう。

 

昨日、西東京市でご縁を結ばせていただいた方は築地本願寺の合葬墓を購入されているそうです。有難いことですが今後のご縁が繋がっていくかは不透明です。それでもご縁が結ばれたことは有り難く思いました。


また桜の開花予想で皆さまはヤキモキされていますが、焦らなくても桜も咲く準備をしていますから。儚き桜の美しさを今年も見させていただきます。多分ね。


散る桜、残る桜も散る桜


人生無常の風が吹きます。

若いだ、元気だという私の命、長生きしようが娑婆の縁が尽きればいつでも死んでいかねばなりません、お互いに。

だからこそ、いつ何時この命が終わろうとも、間違いなく参らせていただく世界を知っておく必要があると思います。

皆さまは何処へ行く命を生きているのですか?

あの世?あの世って何処?

どうやって行くの?


南無阿弥陀仏におまかせして阿弥陀さまの大慈悲心【他力本願】に救われていくのですよ。

おまかせしなきゃ、自力では救われないですよ。自力ではいただけませんよ、安心しておまかせできませんよ。

阿弥陀さまを疑っているから、「安らかに」などと言ってしまうのだから。

阿弥陀さまにおまかせできたら【安穏】しかありませんから。


そうできたら、「有難う」だけじゃなく、「またね」の世界が広がっていくのですよ。

【倶会一処】(くえいっしょ)の世界であります。頭で理解するのではなく、身心でおまかせしていくことで墓石に刻む言葉が変わるはずです。【南無阿弥陀仏】か【倶会一処】と。

広島県や九州、北陸地方の浄土真宗のお墓を見てごらんなさいよ。み教えが根づいているからでしょうね、亡き人の往く世界、南無阿弥陀仏を口に称える私にならせていただいた私が参らせていただく道を墓石に刻んで喜びの日暮らしをさせていただくのですね。


Thank you Buddhaであります。

喜びの御礼の言葉が南無阿弥陀仏であります。


自分勝手には煩悩具足の私は救われはしません。救われない私がいるからこそ阿弥陀の願いが起こっているのです。堕ちていこうとして生きる煩悩具足のこの私。

堕とさせやしない、必ず救うから阿弥陀にまかせよとの親たる仏の願いが私に届けられています。そこへの気づき、目覚めを亡き人は身をかけてお示しくださっているのです。


釈迦弥陀は慈悲の父母

種々に善巧方便し

我らが無上の信心を

発起せしめたまへけり


親鸞聖人のご和讃であります。

[老いゆく私]、[病から逃れられない私]、[いつ死んでいかねばわからない私]、不安のままに右往左往して生きる私を阿弥陀さまが優しく抱いていてくださいます。

南無阿弥陀仏の声となり、「まかせよ、救う」のおはたらきであります。

わからんまんま、まかせきれないまんま、阿弥陀さまのおはたらきであります。

先手、絶え間なく阿弥陀さまは常に先手のはたらきをもって南無阿弥陀仏になってくださいます。


大悲無倦常照我[だいひむけんじょうしょうが]『正信偈』


頼みもしない、お願いすらできない無上の信心を私が気づく前からずっと、ずっと喚び続け、願い続け、まるで我が親のようであります。

はねつけようが、背を向けていようが親は我が子の気づき、目覚めを促し続けてくださいますよね。そしてその親心に気づいた時に子どもにとって我が親はかけがえのない存在となるのではないでしょうか。

私はそのように受け止めています。


私に沿って岸があります。

煩悩具足の私に沿って阿弥陀さまがいらっしゃっいます。

落としゃせんぞ〜のはたらきであります。

そのまま、このままじゃなく、そのままに抱かれてある私でありました。


今日も私は阿弥陀さま、お父さん、お母さんの諸仏さまのおはたらきにおまかせして、南無阿弥陀仏を称えながら生きていきます。


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