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おとむらい

皆さま、こんばんは。

今日はどんな一日でしたか?

二度と戻らない貴重な一日です。

少しでも無駄に過ごすことのないように努めたいものですね。いずれ必ず終わっていかねばならない我が人生です。こればかりは長かれ短かれ皆さま必ずそうなります。


さて、私は常々、人の悲しみの場に出会いながら日々を過ごしています。喜びだけならどんなに素晴らしいかとは思うのですがそうはなかなかならない現実があります。

ただ、悲しむだけではなく【倶会一処】(くえいっしょ)の世界をお伝えすることをさせていただく何とも勿体ないお仕事であります。


月に何度か「葬儀」へ参らせていただきますが、昔から葬儀を、「おとむらい」と申していました。とむらいと、とぶらうは通じていて、とぶらうは、感じで書きますと「訪問」の訪という字を書きます。では何を訪ねるのと言うと、他者の「死」としてではなく、私が「死にゆく」ということを真摯に学んでいくのです。


実はある時、昔からお世話になっておりました先生がお亡くなりになられ、「四十九日」の頃に、挨拶状と一緒に、いわゆる香典返しに「香盒」(こうごう)をいただきました。

これはお焼香をする時の、抹香が入っている容器です。[正式なお焼香には、抹香を香炭を火種にして良い香りをお供えします。線香は略式です。]


私がいただいた香盒は清水焼きのものをいただきました。蓋を開けてみると何と、蓋の裏には【お前も死ぬぞ】と書いてありました。

今や私の宝物であります。

そうなんですよ皆さま。

私は必ず死ぬのです。

全ての命は必ず死んでいくのです。

それでも愚かなる私たち人間はいつまでも自分は生きているものだと思い込み、死んだらどうなるものかを問わずに生きれてしまうのです。


悲しい別れの場にあわせていただくということは故人さまの生前を偲んだり、安らかなる死を願ったりするものではないかとは思いますが、実はそのようなことはいつまでも続かないのです。何故なら「なごりおしくおもえども、しゃばの縁尽きて、力なくしておわるとき、かの土にはまいるべきなり」『歎異抄』

は誰でもない私のことだからであります。


訪ねることは、いつまでも「生」に執着して【往生】の道を求めない私たちへの故人からの遺言ではないかと思うのです。

なかなかご法話でお取次ぎしましても、滅多に響かないものですが、それでも故人さまのお心をお伝えしなくてはならないと私は思っているのです。


開教の先輩が、「末田君、伝えるってなかなか難しいよね。でも避けてはダメだよ。必ずそこに阿弥陀さまのおはたらきがあるんだから、必ず伝わっていくものだからな。」と教えてくださいました。開教の先輩方々は、お仕事だけではなく、み教えも私にお教えてくださいます。

有り難いですね。


だから、私は必ず法話をします。

(たまに業者からやらないでくれと言われますが、そんな時は露前勤行の後、一分法話をしています。)私は法話で阿弥陀さまを取り次がない浄土真宗は無いと思っていますから。

大切なひと時に出遇わせていただくのですから、無駄なく縁を結びたいものです。

大事な時間、それは阿弥陀さまから願われた時間でもあります。

明日は朝一番で横浜市までご縁をいただきます。身体は悲鳴を上げてはいますが、私が超法寺ですからね、やるしかないのですよ。


やればできるよ、できるよやれば、

やるしかないんだから、やらなきゃダメですよ

『あ、やるときゃやらなきゃダメなのよ

(歌 クレイジーケンバンド)


ご存知、ライオンズ栗山巧選手の登場曲であります。なかなかやれない私はいつも奮い立たたせていただいておりますよ。


皆さまも、やってみましょうよ。

やってみたら何かはかわるはずだから。

大丈夫!一人なんかじゃないんだから。

阿弥陀さまがご一緒ですからね。

南無阿弥陀仏を口に称えてみてごらんよ。

そうすればもう安心なんだからね。


やればできるよ、できるよやれば。

私らしく。

おやすみなさい。南無阿弥陀仏

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