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布教

皆さま、こんばんは。

先程、無事に帰院しました。

おかげさまで一年ぶりに柏市正満寺の定例法話会の布教出向のお役目を無事に済ませました。ご高齢のご住職にお会いできて嬉しかったです。病弱だとはおっしゃってました、確かにお痩せになられた様子は見つけられましたか、いつものスマイルは健在でありました。


この度は「あれ?見覚えのない布袍姿の女性がいるなぁ。」と思っていたら、何と若住職のお姉さんがご住職[お父さま]の秘書的立場でお得度をなさったのだそうです。

素晴らしいことですね。まさに善知識であります。頼もしいですよ。


お参りは約20名ほどがお聴聞くださいました。

この度は宗祖親鸞聖人のご和讃、

「釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し 我らが無上の信心を 発起せしめたまへけり」をお取次いたしました。


布教後はご住職と小一時間弱色々とお話ししました。時折、優しい笑顔を交えながら楽しい時間を共にさせていただきました。

まだまだご住職には生きていただきたいなぁと思いながら帰ってきました。

私も約30年、千葉組(そ)でお世話になりましたし、若住職とお付き合いをさせていただいていますから身内のような存在だと勝手に思っていますよ。もちろん若坊守さんとも若い時分から一緒にマリンスタジアムで野球観戦をした間柄(もちろん若住職と)ですから馴染みの深い間柄であります。


お浄土で遇うべき人に今お会いすることができることは偶然ではないはずです。必ずそこには今会うべき意味があると私は思います。

会うことで、さまざまな学びがあります。

学びを通して阿弥陀さまの願いを知ること、これに尽きます。

この世に生まれてきた意味は阿弥陀さまに遇わせていただくことが何より一番であると思います。


昔、「別れても好きな人〜🎵」って流行りましたが、私たちは阿弥陀さまとお遇いさせていただき南無阿弥陀仏をお称えするようになるならば、「別れてもサヨナラしない倶会一処の世界を知るのです。」つまりは、「また遇える」、お浄土での再会を知らされるのです。

悲しいとき〜、ってのも流行りましたね。

悲しいときには、南無阿弥陀仏を口に称えてみるのです。そうすれば安堵することができます。『正信偈』には「常照我」(常に我が身を照らすなり)とあります。

私の人生の「灯」となり生きていくのです。


無いことを願いたい私に、願う前から阿弥陀さまから願われている私に気づかされます。有難いですね。南無阿弥陀仏


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