皆さま、こんにちは。今日もアスファルトは灼熱の暑さで靴を履かないものには地獄の沙汰であります。私は常日頃から散歩に出る際は裸足でアスファルトの上に立って見るように心がけています。ペットの散歩は朝4時までにどうぞ。
さて今日は「念仏は大マジナイ」についてご紹介します。
これは白隠禅師と妙好人三河の七三郎との逸話であります。
是非お味わいしてみていただきたいです。
三河の七三郎が念仏を称えながら畑仕事をしていると、そこを通りかかった白隠禅師が、「ちょっと尋ねるが、お前の称えている念仏は何んのおマジナイじゃ?」すると七三郎、「よう尋ねてくだされた和尚さま、この念仏は大マジナイでございます」
浄土真宗にはマジナイなどの迷信はない、と言うものと思っていた白隠は「大マジナイとは、そりゃ何んじゃ」と聞いた。
七三郎はすかさず「鬼が転じて仏になる大マジナイでございます」と、言い切った。
白隠禅師は話題を変えて「それじゃ七三郎さん、あんたの信ずる阿弥陀さんはどこにいなさる」
七三郎は「ここを去ること十万億の仏土をすぎた西方極楽浄土におられます」
白隠禅師は「ほほう、それはまたえろう遠い処になぁ、それじゃいざという時に間に合わんじゃないのか」白隠禅師はしてやったりとほくそえんだ。
しかし七三郎は「でも今はお留守でございます」
白隠は「何処かにおでかけか?」
七三郎「十万の仏国土を御巡教しておられます」
白隠「それでは今は何処においでじゃ?」
しつこく追及される白隠禅師に、七三郎は胸を大きく叩いて「わからぬか、ここじゃ、ここじゃナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と答えた。
「駿河には過ぎたるものが二つある、富士のお山に原の白隠」と言われる白隠禅師と妙好人三河の七三郎との逸話でありました。
お盆を迎えるにあたり、そろそろご先祖、故人さまの今をご遺族、あなたが知るべきではないのではないだろうか。
迎え火?仏壇に胡瓜や茄子に足を付けて供える、まだそんなことをしているのですか?
口にはお浄土だ、仏さまだなんて言っていながらも、まだ往き先を知らずにいるなんて恥ずかしいのではないですか。
浄土真宗のみ教えの深い場所では「盂蘭盆」とは言わずに【歓喜会】と言います。
その意味を今一度よく点検してみませんか?
門徒ものしらずとは、門徒物忌み知らずという恥ずかしい言葉であります。
形だけの門徒にならぬようにしたいものです。
私は後遺症に悩まされていますが、生きるとは大変だということですね。
それでも生かされていることを喜びながら、ナンマンダブツ、ナンマンダブツとお念仏と共に歩んでいきます。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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