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始まります

皆さま、おはようございます。

まだあちこち痛みがありますが、おかげさまでまた一歩超法寺として前進することができるようです。今年は忙しくなりそうです。

もう一人で切り盛りするのは難しくなるでしょうから、益々、皆さまのお力をお借りしなくてはなりません。

一緒に超法寺を育ててくださる方を募ります。

入間市に聞法道場を!

正しい親鸞聖人のみ教えをお聞かせいただく人の集いの場、お浄土までご一緒させていただく仲間【御同朋•御同行】(おんどうぼう•おんどうぎょう)、皆さまが笑顔で語り合える仲間外れの無い輪を広げていきたいと思います。


ハード面は構築することはできても、ソフト面は皆さま一人一人のお力無くば決して形にはなりません。

寝食を共にし、様々な集いの場にご一緒させていただく中にその思いを強くしていきたいと思います。「忙しい」は、「心を亡くす」という意味です。

蓮如上人は、「暇をかぶりて聴聞すべし」と、仰っておられます。

「暇をかぶりて」とは、「暇を作って」という意味です。私たちは自分の好きなものは忙しくても、時間を調整してやるじゃないですか。

「暇があったら」お寺へ行きたいと言う人でお寺に参った人はありません。


ですから超法寺は、お寺を楽しい、暇を作ってでも足を運びたいと思うような空間にしていきたいと考えています。その一つ一つのピースは皆さまのお知恵が必要なのです。

祖父母は、碁や将棋をする場を皆さまに提供していたそうです。父は碁の教室を定期的に催し、たまに麻雀を楽しんでいました。もちろんゴルフやボウリング大会もしていました。私は副住職時分に、親鸞聖人ご旧跡巡り(1泊旅行)や、勉強会、花祭り(ゲーム、各宗派での釈尊花祭り•••••)などを企画しました。様々なつながりの中で縁を深めていました。

それはお寺とは、葬儀や仏事だけの場では無いのですから。

昔でいう寺子屋みたいな集いの場こそが今だからこそ必要ではないかと考えています。


そこには常に阿弥陀さまを仰ぎ【南無阿弥陀仏】する世界があれば何も問題はございません。私たちは阿弥陀さまにお遇いするために人間に生まれさせていただいたのです。


そのお心を『歎異抄』(17)にお尋ねしてみたいですね。

辺地(へんじ)往生をとぐるひと、つひには地獄におつべしといふこと。この条、なにの証文にみえ候ふぞや。学生(がくしょう)だつるひとのなかに、いひいださるることにて候ふなるこそ、あさましく候へ。経論•正教(しょうぎょう)をば、いかやうにみなされて候ふらん。

信心かけたる行者は、本願を疑ふによりて、辺地に生じて、疑(うたがい)の罪をつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うかたまはり候へ。信心の行者すくなきゆゑに、化土(けど)におほくすすめいれられ候ふを、つひにむなしくなるべしと候ふなるこそ、如来に虚妄(こもう)を申しつけまゐらせられ候ふなれ。


[現代語訳]

辺地(へんじ)といわれる方便の浄土に往生する人は、結局は地獄に堕ちることになるということについて。

このことは、どこにその証拠となる文があるのでしょうか。これは学者ぶった人の中からいいだされたと聞きますが、あきれた話です。そのような人は経典や祖師がたの書かれたものをどのように読まれているのでしょうか。

信心の欠けた念仏者は、阿弥陀仏の本願を疑うことにより、方便の浄土に往生し、その疑いの罪をつぐなった後、真実の浄土においてさとりを開くとうかがっております。

本願を信じて念仏するものが少ないので、仮に方便の浄土に多くのものを往生させておられるのです。それが結局意味のないことであるようにいうのは、それこそ浄土の教えをお説きくださった釈尊が嘘いつわりをいわれたと申しあげておられることになるのです。


いかがでしょうか。阿弥陀さまの【ご本願】を正しく受け止めていくことの意味、南無阿弥陀仏を称えながら生きていくことの意味をきちんとお聞かせいただくことは阿弥陀さまの願いが自力では地獄に堕ちるしか道のない私のために仕上げられたものであったと知ることができます。

まるで親心を知ることのように思えるのです。子どもは、親の外見、外観ばかりに囚われて本当の親心をなかなか知ることができません。

だからこそ、真実を見る目を養っていくこと、つまりは仏法聴聞を重ねて生きていくことが大切なのです。

それを「忙しい」とか「興味が無い」とか「死ねばおしまい」だとか思って自らが地獄(自業苦)行きを目指して生きていこうとする危なっかしい私を親は「仏は」放っておけないのであります。

我が身をかけて「老い」「病」「死」を通して、どうか無常に生きる自身に気づいてくれよ、何もわからない、わかろうともしないあなたのために阿弥陀さまは「大悲」(涙を流しながら)「慈悲」(死ぬまで煩悩から離れることができない私に安らぎをしらせたい親心)を【南無阿弥陀仏】の六字の言葉に込めて、知らず知らずのうちに届けていてくださるのです。


忘れてもいい、決して忘れない阿弥陀がいるからまかせてくれ。のはたらきがナンマンダブツの声となり届いていてくださるのです。

「疑い」の心が湧いてきたら『歎異抄』(十七条)を繰り返し読んでみてください。


今日も尊いみ名【南無阿弥陀仏】を称えながら強く明るく生きていきましょう。

なるべく愚痴や嫌味を言わないようにしながら•••••。南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・

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