皆さま、おはようございます。
もう週末ですね、早いなぁ。
一週間あっという間です。
人生は50代は新幹線の速さですね。
それでも今やれることを精一杯やるのみです。
今日は飯能市でご縁いただきます。
今朝は平安時代仏教の二大巨峰のお話しです。
【伝教大師最澄】、【弘法大師空海】
お二人は同じ遣唐使船に乗り唐へ行きました。
空海さまは第一船、最澄さまは第二船、同日出発でしたが、当時の航海技術では同じ港に着ける保証はありません。空海さまの乗られた船は、唐(中国)のかなり南に着きました。
その後、唐の都、長安に入って当時の新仏教である密教を体系的に修得しました。
一方、最澄さまは滞在期間も短く、長安にも入らなかったため、その密教理解は浅いものでした。密教は空海さまによって本格的に日本にもたらされ空海さまは密教の宗派である【真言宗】を開創します。
【虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願も尽きなむ】 [空海さま]『続性霊集』巻第八
空海さまの願いは、生きとし生けるもの(衆生)、つまり人間だけではありません。
を救うことにありました。
その願いは、虚空が尽き、衆生が尽き、涅槃(悟りの境地)すら尽きてしまったときに完成すると言っておられるのです。
したがって実際には、空海さまの願いが果たされるときは訪れません。彼は永遠に衆生の救いを願い続けるわけです。
その空海さまの願いが、民衆の間に「お大師さん」の信仰を生み出しました。
人々は、弘法大師空海さまは今でも高野山にあって坐禅をしておられると信じて、毎朝、食事を運んでいるのです。
また四国の八十八ヶ所のお遍路さんは、笠に【同行二人】(どうぎょう)と書きます。
お大師さんがお遍路さんと一緒に歩いてくださる、と彼らは信じているのです。
キリスト教の『新約聖書』を読みますと、イエスは弟子たちに言われます。
【わたしに従って来なさい】と。
イエスはわたしたち迷える人間の先頭を歩いていかれます。わたしたちはイエスの後を歩いていけばよいのです。
しかし仏教は違います。
仏教の【仏】は、いつも死ぬまで煩悩から離れられない【凡夫】と共に歩いてくださるのです。観音さまも、お地蔵さんもそうです。そして弘法大師がそうなのです。
【同行二人】とは、指導者と指導される者はいつも一緒に歩いていくのでしょう。
では浄土真宗ではどうでしょうか。
親鸞聖人はご和讃に、
南無阿弥陀仏となえれば 十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して よろこびまもりたもうなり
と、仰っておられます。
【包み込んで】、我が身に宿っていてくださいます。頼もしいですよね。安心であります。
これが【他力信心】というものだと思います。
まるでお母さんに抱かれていた私の安心を表したものかな、などと私はイメージしています。
それなのに、どうしても人間は一人で勝手にものを考えて歩いていこうとするのです。
それでいて息詰まると思い悩んで苦しんでいくのだから始末が悪いです。
だからこそ、後を歩いていくとか、一緒に歩いていくとかでは心持ちが悪い。
抱かれてあるという安心感は何にも替えがたい安穏な世界ではないかと思うのです。
そんなことを思いながら、そうしてくださった亡き母を想い、阿弥陀さまの【ご本願】を感じるのです。
南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・
皆さまも、ひとりぼっちじゃありませんよ。
包み込まれてある安心感を南無阿弥陀仏のお念仏をいただきながら今を生きていきましょう。
Commentaires