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「まんま」の私がめあて

大いなるみ親(阿弥陀)のお救いのめあては、誰でもない、この私でありました。

そのお目当てなる私といえばどうでしょうか。

生まれたら必ず歳を取って、日々好き放題に食べて、飲んで、吸って?、動かずだらけたまま。それなのに病気になったら驚いて「何で私が?」などと悩み苦しんでいます。

「明日ありとおもう心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」と、日頃から諸行無常をお聞かせいただいているというのに、いくつになっても「死にたくない」「死ぬのが怖い」•••と、どんなに聞いても、お念仏を称えても、やはり「死にたくない」の心を超えていくことができないのです。


ですから、いかに私の持つ信心など役に立たないかを思い知らされますよね。

だからこそ、阿弥陀さまがお出ましくださっておられるのです。

頼みもしないのに、もうすでに私をすべてお見抜きしてくださって仕上げていてくださいます。


誰に聞いても解決しません。あの人も、この人も亡くなりました。一番頼りであったお父さんもお母さんも、もうすでに亡くなってしまいました。

不安でどうしようもないこの私をそのまま抱きとめて、摂めとっていてくださっているというのに、やはり不安でたまらない私がいるのです。


『歎異抄』第九条に、

「念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふへきことにて候ふやらん」と、親鸞聖人にお尋ねされた唯円さまのお言葉です。


その唯円さまのお尋ねに、親鸞聖人はお叱りになるのではなく、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と、お答えになられています。


その上で、「よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬ」「にて」「いよいよ往生は一定(いちじょう)とおもひたまふなり」「よろこぶべきことを、よろこばざるは煩悩の所為なり」

「しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」と、答えてくださっているのです。


「われら」の中に、何も知らない、わからない私だけではなく、親鸞聖人や唯円さまも含めているのが申し訳なくも有難いのです。

「死にたくない」私のままで何も問題ではなかったのですね。お聞かせいただいてもすぐに忘れてしまう私ですが、それでもいいのです。

なぜなら、決して忘れない親(阿弥陀)がいてくれるから安心なのですね。


自分で成し遂げる力が私にあったならば、「他力の悲願」などなかったのです。


「なごりおしくおもへども、娑婆の縁尽きて」

「ちからなくしてをはるときに」

「かの土」(浄土)

へまいらせてもらうのです。よろこび勇んでではなく、しようことなしに、

「いそぎまいりたきこころなきものを」

「ことに」

「あはれみたまふ」

み仏のところに帰らせていただくのです。


【死に様】を取り繕う必要なんか、これっぽっちも無かったのです。

七転八倒、「死にたくない!」と、わめきながら亡くなっても、間違いなく摂めとっていただける世界が、もう既に成就(完成)していたのだから。

ぜ〜んぶ、整えて、それをギュッと濃縮したのが南無阿弥陀仏の六字であります。


その南無阿弥陀仏が私の口に現れているのですから、阿弥陀さまが苦悩の私とご一緒くださるということなのです。

だから、大いに七転八倒しちゃってください。

阿弥陀さまは、私に沿ってご一緒してくださいますからね。


このままの殻に閉じこもる私を、阿弥陀さまは南無阿弥陀仏の声のはたらきとなって、【そのまま】抱き止めて、摂めとっていてくださるのです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


私の親がご先祖が頑なな私のために、間違いない阿弥陀さまの仏心を南無阿弥陀仏の声と届けてくださったのです。

そう思えたらしめたものよ。

有難い、有難い、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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