自然(じねん)の声に
- 超法寺の住職
- 2024年8月8日
- 読了時間: 4分
更新日:2024年8月9日
皆さま、おはようございます。
今朝も暑くなりました。セミが元気よく鳴いています。彼らは子孫を残すため、パートナーと巡り会うため短い命を精一杯生きています。
もちろん私たち人間も同じでしょう。
しかし本当にそれがわかっていたら網で彼らを捕まえてしまう行為はしないのではないでしょうか。
このようにわかっているつもりが実は全くわかってはいなかったのかも知れません。彼らは私たち人間の都合では生きていません。地中で長く成長し、やっとの思いで外へ出てきて、暑さを感じるまでもなく必死に殻を脱ぎ命懸けで成虫となります。油断をすれば命を奪われかねないからです。守ってくれるものはありません。
可愛いからとか、夏休みの自由研究で標本を作るからと言って無闇にその尊い命を奪っていいのか考えたいですね。地獄を私自身が作ってしまってはいないのか。命ってなんだろう。
命は皆繋がっているのだから。
それを子どもたちに教えていくのが私たち大人の責任でもあるのではないでしょうか。
私が子どもの頃、広島の田舎(山の中)で夏休みにすることは昆虫採集でした。図鑑を片手にして朝早くから網とカゴを持って走り回っていました。珍しい昆虫を捕まえたらそれを伯父さんに見せていました。すると伯父さんは笑いながら、「たくさんとったのう。じゃか可愛そうじゃけ、逃がしてやりんさいよ」って言うのです。「何でせっかく苦労して捕まえたのに逃がさなきゃならんのかな」って不思議に思っていました。
大人になり、仏法をお聴聞するようになって、身近な人を見送る経験をする中で、あの時に伯父さんが言ってくれた言葉の意味がようやくわかりました。思えば私はたくさんの昆虫を捕まえては殺して(死なせて)きました。
こんな私が地獄に落ちないはずはありません。
今はおかげさまで逃がすということを学びましたが、今まで奪ってきた命にはそれぞれ親がいたのです。きょうだいがいたのです。子どもがいたはずです。それを私の都合で、私の欲望で奪ってきたのですね。恐ろしい、恐ろしい。
鬼はどこにおる、ここに聖者面した坊さんがおりまする。浅ましや。
誰にとっても一番遠いのは、自分自身である。
人間、だれも最後に会わなければならないものがある。それは私である。
私たち人間は、自分のことは自分が一番よく知っているつもりでいます。しかしながら実際は本当の自分は見ないようにしたり、錯覚して生きていることを考えますと、一番近いはずのものが一番遠いということとも言えるのではないでしょうか。自分の内面を見ること、無常の風は、常に私の身の回りを吹いていることを忘れてはいないでしょうか。いずれ知らされます。知らんぷりをして済ませられないものを。
仏法を聞くということは、自分自身のありのままを気づかせていただくということだと思います。よく仏法は鏡にたとえられます。
鏡に移して自分の姿が見えてくるのです。
それは阿弥陀如来のはたらきの中に生かされていくことで少しずつ自らの愚かな生き方を知らされるのでしょう。子どもの頃、分からなかった虫たちの命の尊さを伯父さんが優しく教えていてくれたのですね。
その伯父さんは先日の母の三回忌にわざわざ広島の山奥から伯母さんと一緒に来てくれました。「おー、雅裕が出ているじゃないか」と、多分、築地本願寺新報を見て言ってくれていたそうです。伯父も歳を重ねています。いつまでも元気でいてほしいと願っています。いつまで逢えるかな。お母さんが伯父さんに会わせてくれましたね。お母さん有り難う。
10月には父の三回忌があります。伯母は「身体が悪いから来れないよ」って言っていました。
それでも逢えたらいいなぁ。七回忌にはしばらく時間が空くからね。
私には大切なかけがえのない人がたくさんいます。きっと皆さまにもたくさんいらっしゃることでしょう。逢えるうちに会っておきましょうね。後悔は少しでも少なくしたいものです。
また長笹へ行けたらいいなぁ。
夏と言えば長笹だったからね。
私の命の源流であります。懐かしや、ありがたやーであります。
どうぞ事故などないようにお過ごしくださいませ。南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・何だろう
どうぞ、お気兼ねなくお問合せください。
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