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手続き

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんばんは。

今日はまた一段と寒くて凍えるようでした。

沖縄では竜巻が起こったそうで自然現象の前には人間は無力であることを改めて知らされます。また千葉県では相変わらず地震が頻発していますね。能登半島のようにならないことを念じていますが、被災を想定してさまざまな準備をしておいてください。


さて今日は昨日に引き続き手続きに走り回りました。しばらくはこのような慌ただしさが続くのです。我が生きます生活は他の利益に律せられるべきものではなく、自分の将来の利害に律せられるべきでもなく、そのおりおりに衷心から湧いて出る根本願求(がんぐ)が満たされていくより外はないのであります。


世の中には自分が何かやると、それは、その人にとってやむを得ぬ一道であるには違いないが、他の者までもそうしなければならぬように思っている人があります。

この人は愚昧(ぐまい)な人であります。

尊い道は、その人がその人自身の表現である生活なのです。その他に何らの客観的の規定はないのです。人間はすべて許されているのです。

広い世界に自分の心一杯に生活して行くのです。それについて毀誉(きよ)と苦楽とを念頭におかないで、いつでも欺かない自分の心に聞いて表裏のない生活をしていくのが大切です。


私の生活を私以外の誰からも制約してもらいたくありません。それが、仏であっても神であっても、親であっても友であっても、私自身の生活に制約を与えようとするものは、私の仇であります。この仇は、わたしに対して至極微力(しごくびりょく)なものです。

大人の世界は常に人生は自己責任であります。

いかなることも他人のせいにしても意味がありません。私は私を生きているのだから。

「自分は自分自身の生活に対して忠実であれ。最後の決断者であれ。自主的であれ、積極的であれ」と、抽象的に策励(さくれい)を与えうるのに、決して倦まない(うまない)のです。

       「自然を超ゆる心(1923年)」 

暁烏敏さんのお言葉を引用してお味わいいたしました。

私は私を生きているのです。

私が弱気になっても私は私を生かそうと最後まで生きてくださいます。諦めようとする私を最後の最後まで生かそうとするのです。

それを嬉しいとも思うことのない私でありましても、私を生かそうとするはたらきが止むことはありません。


そのはたらきに私がいかように気づいていくのか、気づけば生き方が変わります。今生きていることの有り難さ、素晴らしさを享受することができるのです。気づいたら私が今何をすべきかがきっとわかるはずであります。

わからねば恥ずかしい。恥ずかしいことに気づいたならば、恥ずかしくない私になればいい。なるためにはどうすればいいか。

わからなかったら仏に尋ねていこう。


私の大好きなご住職の言葉を紹介します。

 苦悩の多い日暮しの中にこそ、私を抱いて

 離さないお慈悲のぬくもりに身を置いて、

 力強く生きていこう。南無阿弥陀仏、南無阿

 弥陀仏


今日も新たなお出会いがございました。

有難いですね。南無阿弥陀仏

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