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『巡恋歌』を聴いて想う

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんばんは。

いかがお過ごしでしたか?

私は久しぶりにゆっくりできました。

明日からまたしばらく法務をいただいています。今月は前半かなり暇にしていたので不安いっぱいでしたか、やれることを精一杯努めております。それしかできないから。


しかしながら皆さま、相変わらずアルコール消毒スルーしていますね。危険ですよ。

入間市街で行動を拝見していますと、あ〜あ、これじゃあ新型コロナウィルス感染が増えているのは当然だなぁと感じています。

だからこそ不急不要の外出は避けなくては危険ですね。

感染後の後遺症は実際に感染してからでは遅いよ。だって呼吸器系の後遺症は誰にもわかってもらえず、ずっと苦しいから。

若い人でも苦しいのに中年以上で喫煙経験者なら半端ないですよ。明日は我が身です。


さて最近ネットを見ていますと懐かしの青春ソング長渕剛さんの『巡恋歌』を聴く機会が増えました。久しぶりに聴くと何かグッとくるものがあります。

「寂しさゆえに愛が芽生え、お互いを知って愛が終わる」♫

我が人生このパターンが実に多かったように振り返ります。長渕剛さんの若き歌詞能力半端ないなぁ。音楽の力って凄いですよね。


では私、末田はどのようなパワーを秘めているのだろうか?う〜ん、未だに未知数。


「くやしいけれど ほれたのは どうやら私の方だったみたい 別れの舞台はどこで?などとおどけてみせるのもこれで最後ね」♫

「だから私の恋は いつも巡り巡って ふりだしよ いつまでたっても恋の矢は あなたの胸には ささらない」♫

このようなこと未だにずっと繰り返しているんだなぁ。感慨深いなぁ。


でも、日々のくらしの中では、この寂しさは独りだからあるわけではございません。

家族に囲まれてもやはり人間とは寂しさからはなかなか解放されないようですね。

それはなぜか?

簡単です。家族それぞれは自分を持って生きているから。すべてを受け入れてくれるわけじゃないから。


だから、阿弥陀さまのご本願を仰ぎ、お念仏を称えながら自らを律して生きていくほかには、この寂しさから逃れる術はないと思う。

ナンマンダブツ〜と、声にお念仏を称えながら亡き人を仏さまと仰ぐ世界は仏法に我が身を浸からせていく道であります。


まさに充実した日々の基本ではないかと思います。

「浄土真宗の生活信条」にも、《み仏の誓いを信じ、尊いみ名を称えつつ、強く明るく生き抜きます。》


この実践こそが末田の生きていくパワーの源であります。皆さまもどうぞご一緒に。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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