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執筆者の写真超法寺の住職

まかせきって

更新日:2024年1月24日

「仏さまだ」それも、私が努力してなる仏さまではありません。

私はどこまで行っても、死ぬまで煩悩から離れられない【泥凡夫】です。

常に自己中心的なものの見方しかできない愚かな生き方です。

たとえ仏教の教えにあっても、年末年始には神頼みに厄除けが気になるのです。

それでも、私は浄土真宗だとか、先祖代々浄土真宗ですよという。

「ご住職、浄土真宗でよかったですね」

「そりゃあそうですよね」と住職が言うと、「死んだら仏さまですもの」と

喜んでいる。確かに、違うとまでは言いませんが、死にさえすれば仏になるのではありません。

『歎異抄』にも、【弥陀の本願を信じ、念仏申さば仏になる】と言われています。

※【弥陀の本願を信じ】

※【念仏申さば】

が疎かになってはいないでしょうか。


そして阿弥陀さまは、浄土真宗の人を救う仏さまじゃありません。

「十方衆生」、「十方一切の衆生みなもれず往生すべし」

親が我が子に願いをかけてくださるように阿弥陀さまは常に私にまかせよ、救う。

と願い続けていてくださるのです。自分勝手に死にさえすれば往生できると思ったら大きな間違いであります。

阿弥陀さまの大慈悲心があればこそ、阿弥陀さまのおはたらきのままに救われるのです。

【一子地】(いっしじ)と読みます。

これは何よりも大切なただ一人の子どものことです。

阿弥陀さまは、常に私をそのように見ていてくださっています。

皆さまは、その阿弥陀さまの願いを知っておられますか?

聞いておられますか?受け止めていますか?喜びを感じていますか?

この口に南無阿弥陀仏が声になっていますか?

南無阿弥陀仏は感謝の言葉です。

皆さまも、人からよくしてもらったらお礼を言いますよね。

黙ってするのですか?それはあまり嬉しくない時でしょう。

本当に嬉しかったら、「有難う!」って大きな声で言うはずです。


お念仏もそう。他人に聞かせるものでも、号令をかけられて言うものでもありません。仏さま、救っていてくれて有難うございますが声になるのが他力のお念仏です。

最近では、どうも誰かに促されないとお念仏が申されない時代になってきた気がする。それだけではなく、号令をかけられてもお念仏が声にならないエセ門徒(失礼ながら)が実に多くなってきたように感じているのは私だけ?

阿弥陀さまの親心がわからず、自分勝手に往生しようとしてもダメですよ。

私の生き方は地獄(自業苦)行きの生き方なのですから。

※嘘をつく

※命を粗末にする(他の命を奪う)

※盗むこと

※男女の問題を起こす(不倫など)

※飲酒をする


この五つも守れない私がどうやって自分のわがままで往生しようとするのでしょう。

浄土真宗のみ教えに遇うことは、このような愚かな自分に気づき、目覚めていくことなのです。

頭を下げるのではなく、頭が下がる生き方となることです。


恩師、松林宗恵師の常の仰せは、「ガを捨てて、ゲに生きよ。ガ行の法則よ」と、生前お諭しくださいました。

※「私がのガ」

※「おかげさまのゲ」


不足を言わずに、感謝を常に言葉にしなさいとのお愉です。

私が頑張っているからとガを強調していくのではなく、あなたがいてくれたからというガを大事にすると、感謝、おかげさまと頭が下がるのではないでしょうか。


何様だ、と人を責める私が南無阿弥陀仏のはたらきによってこそ、仏さまにならせていただけるのです。それを親鸞聖人は「不可思議」とおっしゃっておられます。

【凡夫が仏になるとは不思議だ】


そんな不可思議な仏さまを私にお伝えくださったのが皆さまの有縁の方々であったのです。偶然ではありません。長い時間をかけて、ようやく出遇わせていただけたのですから大事にして欲しいと思います。南無阿弥陀仏


おやすみなさいませ

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