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執筆者の写真超法寺の住職

願いが先

皆さま、おはようございます。晴れました。おかげさまであります。

さまざまなことがありながらも立ち止まることができない私です。

特急の速さでそろそろ新幹線並みに人生が過ぎていくのでしょう。

やると決めた以上、予定を変更されても困ります。無理を承知でお許しを

いただきたいと切に願うばかりであります。

しかしながらこの世は諸行無常ですからなるようにしかなりません。

やれないならばそれも受け入れていかねばならないことも知らせれています。

それなのにこの私は「執着」に心悩ませているのです。

実にお恥ずかしいです。


『歎異抄』第一章

 一、弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、

 念仏もふさんとおもいたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

 弥陀の本願には老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。

 そのゆへは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。


 しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの、悪なきゆへに、と云々。


これをとかく自分勝手な思いで受け取ってきたために蓮如上人は「誰にでもむやみに見せてはいけない」と取り扱いをきちんとすべきだと言われています。

私も常々そう思い、仏法聴聞もされない人に向けて『歎異抄』についておとりつぎをしないようにしてきました。誤解を受けやすいからであります。

実際、お坊さんでも解釈を自分勝手な偏見で受け止める方が多いように思われます。

「罪悪深重・煩悩熾盛」の衆生を人間一般と考えるなら親鸞聖人のお心にはかなわないと思います。


罪悪深重は誰でもなくこの私のことだと言っているのです。

人間の悲しさは、他人ごとでいつも自分を置いて語ってしまうことなのです。

このように「私自身」が罪悪深重で煩悩熾盛であるという気づきに遇えないからこそ、常に苦悩するのです。

どんなに素晴らしい「ご本願」をお立てくだっていても、その素晴らしいものに背いている私がいるのです。


 源信(法然聖人)は、『横川法語』に、

 妄念は、もとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心は無きなり。


と仰られました。

このどうしようもない凡夫の私の一切をご承知の上で、阿弥陀さまは絶対の救済を実現しておられるのです。そしてお恥ずかしながら、その私は勝手な思いで受け取ってしまうのです。どうしても、そのままに受け止めていくことが難しいのです。

ですから、仏法聴聞を心掛けていくのです。

報土に生まれさせたい阿弥陀の願い

大からず


仮の仮土に往生しようとする凡夫

少なからず


このようになっているのです。


親鸞聖人は、【疑心なきを信心という】とはっきりおっしゃっておられるのです。

でも、これがなかなか伝わらないんですね。

それほど人間の抱える煩悩は悟りから遠い遠い存在なのです。

よって「弥陀成仏のこのかたは 今に十劫へたまえり・・・」と親がご和讃でおっしゃっておられるのです。ずっと自分の殻に閉じこもって阿弥陀さまに遇わないできたのです。


願いが先、そうなのです。それなのにその願いを受け止められない生き方をするこの私、阿弥陀さまとのせめぎ合いがいつまで続くのでしょうか。

私はおかげさまで受け止めることができました。我が親のおかげでありました。

まだ間に合いますよ。是非、諸行無常の理に遇ってでもそれを縁としてお念仏を称える私にならせていただきましょう。

そんなことを思いながら、今日も私はナンマンダブツを称えながら生きていきます。


ナンマンダブツ

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