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執筆者の写真超法寺の住職

誰のため?

待ちぼうけ 待ちぼうけ

ある日せっせと 野良かせぎ

そこへウサギが 飛んで出て

ころりころげた 木の根っこ


待ちぼうけ 待ちぼうけ

しめたこれから 寝て待とか

待てば獲ものは 駆けて来る

ウサギぶつかれ 木の根っこ


待ちぼうけ 待ちぼうけ

もとは涼しい キビ畑

いまは荒野の ホウキ草

寒い北風 木の根っこ


懐かしい童話は今でも心を躍らせますね。

あてにならないものを何もしないで、ただ静かに待ち望む「他人まかせ」を、もし「他力」だと考えるならば「もとは涼しいキビ畑」がまたたく間に、「いまは荒野のホウキ草」となってしまいます。そんな「棚からぼた餅」では自助努力の意思を削ぎ人間をダメにするから、「他力は退却」と仰る方もおられるかもしれません。


しかしどうでしょうか。

「他力」とは、【阿弥陀さまのご本願のはたらき】、【私のはからいを離れて、阿弥陀さまに疑いなくおまかせすること】、【阿弥陀さまの私を決して捨てることができないお心のおはたらき】と、親鸞聖人はお味わいくださいます。

阿弥陀さまの救わずにはおれないとのおはたらきを、かけられているこの私は、ただ仰せの通りにいただいて、依りかかるだけの【他力】でありますよと、どうなるかわからないことを待つのではなく、既にかけられている先手のお手立てをすべて受け取ることです。


これは阿弥陀さまがそうしなくてはとても救うことのできない、諸仏が見放した生き方の私がいるからに他ならない。しかし悲しいかな私たち人間は自分は正しい生き方をしていると間違えた生き方をしているのです。それに気づくことなく生きようとする。

だから阿弥陀さまは【救いの親】とならしめざるを得ないのであります。

「親になったぞ!」の名のりなのです。

親であればこそ、我が子をどこまでも見捨てられないのであります。

ただ先手を打ち、喚び続けるのであります。


気づけよ、気づいてくれよと。

無常の人生を不安と悲しみの中をヨチヨチ歩いている幼な子のようなこの私の姿を見たときに、何もかも振り捨てて飛び出す親の姿こそが「親のはたらき」というのでしょう。


ですから「他力」とは、退却などではなく、これより確かなもののない大きなる前進の力を阿弥陀さまから与えられ、大きな安心の中に生きていくということなのです。

「他力」とは、私の身勝手なあゆみではなく、阿弥陀さまの智慧のお示しと大慈悲の励ましに支えられて生きていく【不退転】の前進であるて思います。


「他力」は目には見えない。

だからわからない。わからないから疑う。

でも風も見えません。電波も見えませんよね.見えないから無いのですか?違いますよね。

見えなくてもあるんです.あるから他のものへのはたらきとなり、そのはたらきを受けたものが変化するとき、その変化によって見えない風や電波の働きを知ることができるのです。


 コスモスは見えぬ風の確かさを、伝えて

 知らす語り部の花


そう詠まれた方があります。

今、知らずに生きていた私に私の人生を支えて動かし、あるいは押し止め、そして正しき方向へと変えてくださっている力を【阿弥陀さまのご本願のはたらき】といい、【他力】というのですね。


 たのませてたのまれたまふ弥陀なれば、

 たのむこころもわれとおこらず


すべて向こう(阿弥陀)の先手のはたらきでありました.


 弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよく

 よく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり

 けり。されば、それほどの業(ごう)をもち

 ける身にてありけるを、たすけんとおぼしめ

 したちける本願のかたじけなさよ


浄土真宗の宗祖親鸞聖人の常の仰せでありました。阿弥陀さまの先手のはたらきを、この身いっぱいに受けながら、ご本願を掲げてくだされた目標(浄土に生まれさせて仏にならしめん)に向かって不退転の歩みを続ける人生を私たちも今ここに生きぬいて生きなさいとの仰せではないかと思うのです。


信じたら救いがあるのではありません。

それでは条件のあるお救いではないですか。

我が親も私に条件をつけたのではなく、【先手の】願いがあればこそなのですから。

親から見抜かれたこの私であります。


有難きしあわせ。ナンマンダブツ。

おやすみなさいませ。南無阿弥陀仏

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