皆さま、こんにちは。
今日も暑い一日でした。
そして今日は所沢市斎場で日頃よりお世話になっているご寺院の葬儀へ参拝しました。
とても悲しい、言葉もない、辛い辛い場でありました。
別れとは必ず来るとは日頃よりお聞きしていますし、私自身も最愛の愛犬を失った悲しみの中にいます。ただ、人と犬を同じくして語るのは不謹慎かも知れませんが、「命」ととらえるならば同じく私は考え受け止めていくことは大切だと思う。
諸行無常はどこか遠くにあるのではありません。実は私たちのすぐ身近なところにあるものです。お聴聞(仏法を聞く)を重ねていましても、どうしても自身も含め皆、今日も明日も明後日もその先もあると思いたい。
しかしながら生きるとは常にいつでも「縁」が尽きたならば必ず命を終えて行かねばならないという厳しい姿があるということを忘れてはなりません。
この度はまだ若くして「病」によってこの命を終えていかねばならなかった、まさに親から見たら[まさか]であったことでしょう。
涙無くしてはいられない厳しさを目の当たりにいたしました。
明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは。
諸行無常の世界とは厳しいのです。
例外なく必ず命を終えていくのです。
待ったなしにです。
浄土真宗のみ教えに遇わせていただくことは、
「必ず救うぞ、まかせよ」の阿弥陀如来さまのご本願のお誓いを知り受け入れていくことであります。
ここさえ解決をしておければ、別れは永遠ではなく、また遇える【倶会一処】[くえいっしょ]のです。
サヨナラは別れの言葉じゃなくて、再びあうまでの遠い約束。
南無阿弥陀仏を我が身にいただくのです。
この欲のままの私が仏の願いのはたらきによって、そのままに参らせていただくのです。
「間違わせはしないぞ、必ず浄土に生まれさせるぞ。二度と輪廻転生しない仏のさとりにするぞ」
そう願い、はたらいてくださいます。
そう言っても生きていたい。
それでも命は終えていかねばならないのです。
私も皆さまもです。
この度は「親」の親だからこその悲しみ苦しみを目の当たりにさせていただきました。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と身体が震えるほどの場に同席をさせていただきました。
改めて私のあるべき姿、私がすべきことの再認識をさせていただきました。
私はこの歳まで生きながらえてしあわせであります。しかしながら、いずれそう遠くない時に参らせていただきます。
皆さまも、南無阿弥陀仏を声にお称えできるように今からきちんと準備しておきましょう。
すぐ自分の番がやってきますよ。
参らせていただきましょう。
南無阿弥陀仏
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