父一周忌
更新日:10月12日
皆さま、こんばんは。
おかげさまで無事に父の一周忌を済ませることができました。勝浦市真光寺のご住職が導師を勤めてくださる中、母の兄弟、私たち子どもたち、その家族、親戚一同にて父の生前を偲びました。
人間を通じて阿弥陀さまと【縁】が結ばれないのなら、人間が縁結ばれるものを同じくしてまでも救いたいというはたらきがあるはずです。
その心持ちが長い年月の中に私たち人間が【極重悪人】たる我が身の姿を見失っているのではないだろうか。親鸞さまは『正信偈』に、
「極重悪人唯称仏」
[極重の悪人は唯仏を称すべし]と、おっしゃっておられます。
皆さまは、ご自分を極重悪人と思っていますか?いないですよね。親鸞聖人は、「死ぬまで煩悩から離れられないものを凡夫」と、おっしゃっておられますよ。同じ意味です。
私たちは知らず知らずのうちに「罪」を犯していますよ。
いつしか人間は、自分は正しい、間違いなどないと勘違いして生きていますが、残念ながら私たち人間に【真】などありはしません。
これは真摯に仏法を聴聞しなくてはわかりません。
お釈迦さまの説かれた仏法は、【法鏡】だと言われます。
【法】とは、ありのままということです。
ありのままとは何か。
曲がったものなら曲がったもの
赤いものなら赤いもの
黒ければ黒いもの
白ければ白いもの
三角は三角として
四角は四角として
ありのままということが
【法】ということです。
先も言いましたが、【法】は【鏡】ですから、私たちの姿をありのままに写して見せてくれる鏡ということです。
それなのに私たち人間は自分の都合の良いものを正しいと思い込んでいるだけなのです。
仏法を真摯に聴聞を重ねていく中にしか真実なる我が身に気づくことはありません。
だから、いつのまにか私たち人間は自分たちの都合に合わせて阿弥陀さまをはかっているのではないかと思います。
勧学和上さまもおっしゃっておられます。
どなたかは伏せますがこの方のお取次があればこそ、私の犬とのナンマンダブツ生活はあるのです。
だから、どんなに否定されようが、どんなに非難されましょうが私は何ら気にはならないのです。私は人間に習うのではありません。
阿弥陀さまのお誓いを仰ぎながら、ただ粛々とナンマンダブツを称えながら生きていくのです。
ですから、伯父は「あの寺には負けたらいかんぞ。」と言ったけど、比較する必要はないのですね。私には私の役割があり、超法寺には超法寺の役割があるのですから。
いいですか。
仏道は、形に囚われてはならないのです。
人間がこしらえたものは必ずと言って変化していくのだから。今は、「犬畜生」などと言っていても、この先きっと私が考える世界が現実となるはずです。
だって親鸞聖人は、『正信偈』で「極重悪人唯称仏」と言っておられるのに現実には「ナンマンダブツを称えながら生きている人」は少数ななのですから。
ましてや自分が【極重悪人】などという認識を持って生きているなど皆無なのだから。
悲しいことですね。
親鸞聖人は、どのような思いでお正信偈を書いたのでしょうか。親鸞聖人が生きておられた時代は今から800年も前ですよ。
つまりはあれから私たち人間の生き方は何にも変わっていないということじゃないですか。
変われない私のために、阿弥陀が変わるから、
まかせてくれよ。
という願いがナンマンダブツの声となって今ここに届いている。
私たちに仏法を聞いてくれよ、我が名を称えてくれよ、と形をそれぞれ変えながらはたらいていてくださるのは決して我が親だけではないと私は思うのです。
あらゆる命が、頑固な私のためにあの手この手のはたらきにて阿弥陀さまへ誘ってくださるのです。
目覚めてくれよ、自我の殻から出てきてくれよ、とはたらいているのです。
親鸞聖人は、ご和讃に、
【南無阿弥陀仏となふれば 十方無量の諸佛は 百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり】〈現世利益和讃〉
と、おっしゃっておられます。
我が父も、我が母も、その諸佛のお一人ではなかったのでしょうね。
もちろん犬だって私は仏法聴聞へ誘ってくれた【善知識】(ぜんじしき)だと私は確信していますから。
長くなりましたが(いつもですが)、
時代や社会の論理を超えて、いつでもどこでも、あらゆる私の身の回りのもの一切が、この私をお念仏を申す身にしてくださったと、私はいただいているのです。
それにはご先祖、犬猫、動物たちには分け隔てがあるはずないのです。それほど人間は複雑な中に生きているのだから。
阿弥陀さまはあの手この手を思案されて南無阿弥陀仏を仕上げられたのです。
これも『正信偈』に、「五劫思惟之摂受」
(ごこうしゆいししょうじゅ)と言われています。
人智など阿弥陀さまの前では通用などしないのに、一生懸命自我の偏見で物事を図ろうとしているのが人間であり、凡夫だという自覚がない生き方です。
いいですか、【五劫】って永い永いのですよ。
【一劫】は、4億3200万年ですから、五劫とは、その五倍の時間考えられたのです。
その上で仕上げられた南無阿弥陀仏を人間は疑うのだから阿弥陀さまは大変なご苦労だと思いますよね。
そもそもなぜ、法蔵菩薩[阿弥陀如来]はそれだけの時間をかけて思惟されたのか。
それは、あらゆる仏の救いから漏れる生き方をしている私が(人間)いるからですよ。
それなのに、【死ねば仏】などと凡夫の意識すらない生き方をしています。
どんなに素晴らしいものよりも尊く光り輝いている南無阿弥陀仏だというのに、それを宝物であるという認識を持てない。
宝物じゃないから粗末にして生きているのです。
ではなぜ、南無阿弥陀仏を宝物と見れないのか。それは私の眼が欲によって閉ざされているからじゃないですか。
、このまま(人間の知恵)では救われないのですそのまま(阿弥陀さまの智慧)のお救いがあるのです。
ちゃんと仕上げられてあるのにもかかわらず人間は遠回りをしようとします。愚かですよね。
我が父は、父のありのままの姿を通してそれを私に教えてくれました。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
悲しくとも寂しくとも私はあなたが人生をかけて教えてくださった南無阿弥陀仏を灯火として生きていきますよ。有難う。
南無阿弥陀仏
皆さま、おやすみなさいませ。