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果遂の心(成し遂げる)

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

更新日:2023年7月11日

皆さま、おはようございます。

今朝も早くから暑くなりましたね。

お天気も良いのでお洗濯日和です。

今日もいつもと変わらぬ朝を迎えています。

有難いですね。南無阿弥陀仏


み仏の誓いを信じ、尊いみ名を称えつつ、

強く明るく生き抜きます。


み仏の光をあおぎ、常にわが身をかえりみて、

感謝のうちに励みます。


み仏の教えにしたがい、正しい道を聞きわけて、まことのみのりをひろめます。


み仏の恵みを喜び、互いにうやまい助けあい、社会のために尽くします。


【浄土真宗の生活信条】



南無阿弥陀仏を称えながら(つつ)と言われますと、とかくお念仏を称えなきゃと称えることに力が入りがちになります。

何のための南無阿弥陀仏ですかねえ。

称えなければ救われないのなら、それは浄土真宗のお念仏ではないと思います。

数を問題にしたり、称えることを問題にしたら浄土真宗じゃなくて浄土宗の南無阿弥陀仏になってしまうでしょうね。


だから、私は「ご一緒にお念仏申しましょう」が嫌いなのです。一見優しそうに感じますが、ではなぜお念仏を申すのですか?

浄土真宗では、【報恩のお念仏】と言います。

つまり簡単に言えば、【有難う】のお念仏なのでしょう。

ここに疑問を感じた方は、私と同意見かな。


たまに道で、親御さんが子どもさんに「お礼言いなさい」って言うのを耳にします。

お礼って人に言われたらするのでは違うと思う。ありがとうと思ったなら自ら声にして言うのではないかと私は思いますよ。

だから、「お念仏申しましょう」には違和感があるのです。

促すことはいいのかもしれないけど、号令をかけるのはどうなのかなぁ。


南無阿弥陀仏は、阿弥陀如来がお喚びくださるはたらきが私に届いて、それを受け取ることで私の口から出てくださるものです。

それは決して「阿弥陀さまが強要しておられるのではなく、称えておくれよの願い」だと思います。


すべての人を助けたいと思って自らが先手のお救いを成し遂げられたのが南無阿弥陀仏の六字に込められてあるのです。

「あ〜、阿弥陀さまがお救いくださるのは、他の誰でもない、救いから背を向けて生きているこの私でありましたなぁ。」と、お聞かせいただいての喜び、嬉しさが溢れ出ることで私の愚痴の口から出てくださるものてまはないかと思うのです。


ですから戦前くらいまでは、お寺の本堂内はご門徒がそれぞれが称えるお念仏で溢れていたと聞きました。ご講師が出て来られる前に総代さんが皆の前に出て、「皆のもの、念仏やめ〜」と号令をかけていたそうですよ。

すごいですね。

それが今や、「ご一緒にお念仏申しましょう」ですからね。時代が変わったのか教えが廃れたのか、お寺に参る人の思いが変わったのか。


今だからこそ、もう一度考えたいものですね。

人によっては、それでもいただいていない人にはお念仏は称えられないのだからいいではないかと仰る。それもあるとは思うけど何かしっくりとこない。それでは浄土真宗と浄土宗の違いは何?


阿弥陀さまのはたらきって何だろう。


南無阿弥陀仏を称えることで自分が変わろうとする。意外と陥りやすいのはここではないだろうか。「阿弥陀さまはお念仏を称える私を救ってくださると私が思っている」こと。


自分の信じているというところに阿弥陀さまを押し込めてしまうのですね。

そこを、親鸞聖人は、【難信】とおっしゃっておられるのです。

仏教を聞いて、納得した、わかった、楽になった、心に響いたということを私の救いの証にしてしまうのです。【信心】を私がこしらえてしまうのですね。

でもどうですか?南無阿弥陀仏を称えて何かが変わりましたか?

【難信】とは、こちらに置いてしまう凡夫の悲しさ、置くことで安心してしまい、結局損だ得だに埋没してしまう。阿弥陀さまに手垢を付けてしまうことですね。


【聞其名号】(もんごみょうごう)と、第十八願には、【その名号を聞きて】と言われています。決してお念仏を称えたらとは言われてはいないのですね。これはどういうことでしょうか。

第二十願の終わりには「果遂せずは正覚を取らじ」とあります。

果遂というのは、果たし成し遂げるということ。つまりはここでは終わらないということ。

ここでは終わらせないとは、死んで終わるんじゃなくて必ず【真実の世界】にあなたを導き入れるということです。


【生まれた意義と生きる喜びを見つけよう】


生まれた意義がわからないから、何とかそれを見つけねばと思う。

生きる喜びがないから、私の人生のどこかに見出そうとする。


仏法を聞いて、この人生を生き抜く意義を見つけ、喜びあふれる人生を得ることが救いだと思うのは当然ですね。


しかしながら十八願では、【南無阿弥陀仏を聞くところに、私の救いが成り立つ】とあるのです。

だからこそ日頃からの仏法聴聞が大事なのでしょうね。つい私の偏見で南無阿弥陀仏を解釈してしまうから。

私が南無阿弥陀仏を掴んだら途端に【金剛信心】が疑いになるのです。疑いは不安を感じます。


いいですか、南無阿弥陀仏は仏さまのお名前であると聞くからいつも自分が抜け落ちてしまいのではないでしょうか。

南無阿弥陀仏は、どうにもこうにも救いに背を向けてしか生きられないこの私を必ず救うという阿弥陀さまの願いによってできているのです。ということは、南無阿弥陀仏は、私の名前なんですよ。阿弥陀さまは私の名を喚び続けていてくださるのです。


そう、我が母が、我が父が私を呼び続けてくれたように。私たちは我が親から名を呼んでいただいて安心したのですよね。

私は56年間、呼んでくださいました。

有難いですね。あ、涙が出てきたよ。

当たり前だったことが当たり前でなくなった今、どれほど喜ばしいことであったのだろうか。もう呼んでくれる人はいません。

でも、我が親は、親さまとなりて今は私を南無阿弥陀仏と喚び続けていてくださいます。

その声をそのまま聞けるからこそ、南無阿弥陀仏とわからない私のこの口に表れているのでしょうね。


【果遂】についてご紹介させていただきました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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