皆さま、おはようございます。
また寒い朝ですね。
今日は超法寺の春季彼岸会です。
懐かしいご先祖を偲びながら遇い難き仏法を
お取次しながら遇わせていただけた慶びを阿弥陀さまへの讃嘆として表したいと思います。
今月も早くも残り一週間ですね。
超特急に過ぎていきますね。
まさに人生は無常迅速であります。
皆さまも是非、急いですべきことは今しておきましょう。すべきこととはもちろん我が命の往き先を知っておくことだと思います。
我が人生は旅のようなものです。
旅は帰るところがあるから楽しいのです。
帰る場所がない人は旅ではなくてただ彷徨っているだけですからね。日暮が寂しいです。
帰る場所があれば日暮も楽しいのです。
最近ではあまり子どもたちが公園で遊ぶ姿をみなくなりました。私は本当に夕方遅くまで遊びました。あまり遊び過ぎて家に入れてもらえないことすらありました。
うちはすぐそうする親でした。
子どもは親が迎えに来ますから安心して遊んでいられますし、親がいない子どもだって子どもたちと遊ぶことで寂しさを忘れられます。
でも迎えがないから夜は寂しいのですね。
帰る場所がある、還るべき世界を知ることが【彼岸会】を勤めていく最大の意味であります。
[死ねば仏]ではありません。
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【弥陀の本願を信じ、念仏もうさば仏になる】『歎異抄』
阿弥陀如来のご本願は、私が浄土を願うのではなく、浄土から私が願われている存在であるのです。それはなぜか、危なっかしい生き方を正しいと思って生きているからです。
闇の夜の 月の光のありがたさは
わかるけど 太陽の光は大きすぎて
わからない 雨の日の傘のありがたさは
わかるけど 屋根のご恩は大きすぎて
わからない
親鸞聖人は、浄土から私が願われていることをお示しくださり、そのお浄土からのはたらきかけが【南無阿弥陀仏】のお念仏となり、今日をも明日をも知らないこの私を照らし、はたらきかけてくださっているのです。
阿弥陀さまの【大悲】は決して目に見えない。太陽の光もその存在があまりに大きすぎて有り難さに気づきにくいです。しかし闇夜になることで月光となってその存在に気づかされます。
阿弥陀如来の大悲も、あらゆる場所に行き渡っている、それは南無阿弥陀仏となり私たちに存在を知るのであります。
その存在をもって、人々を漏らさず苦悩の人生から西方浄土(やすらぎの世界を西に建立された)へとお救いくださるのです。
私たちが阿弥陀さまを忘れても阿弥陀さまは決して私を忘れることはございません。
『歎異抄』第十四に、
「一生のあひだ申すところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり」とあります。
一生の間に称えるお念仏は、すべてみな、如来大悲のご恩への感謝の表れだと思うべきであると言われるのです。
身に着けたもの、目に見える財産は、やがて時代とともに形がなくなってしまいます。しかし、私のいのちの存在は、父母を通してご先祖から、網の目のようにつながっているのです。
毎日毎日、さまざまなことに振り回されている私たちでありますが、私が私として生きることを成り立たせてくれている大きないのちのはたらきがあるのです。
大いなる阿弥陀さまの大悲の中に私が生かされていることに目覚めたとき、初めて【報恩感謝】の生活がひらけてくるのではないでしょうか。そのことに気づかされたとき、私たちは人生を生きることの本当の意味を知らされるのではないでしょうか。
そのことを頭でぼんやりと知るのでは安心はできませんよね。人間って年々忘れることばかりですから。だからこそ今聞いて聞きながらの我が人生を歩むことこそがどんな荒波の人生になろうとも安心して生きていけるのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
華やかな人生も、屁ひとつで一瞬で失ってしまうことを世界一有名な通訳の彼が私たちに教えてくださいましたよね。いいですか、他人事ではないのですからね、彼がまるで諸仏のはたらきとなって愚かな生き方をするなよと教えてくださいました。
私はそう思っています。まさに屁ひとつの所行で信頼関係を失ってしまうのですよ。私たちだって【煩悩具足の凡夫】だから。
一度失った信頼は、いくら言い繕ってもただ、ただ虚しいだけであります。
昔から後悔後に立たずと言いますがまさにその通りであります。
悔い改めるためには真摯に仏法聴聞を重ねるしかありません。
過去には超法寺に後ろ足で泥をかけ去っていかれた方もありました。その方には是非そのことに気づいていただきたいと私は常々そう思っていますがやはり難しいようですね。
阿弥陀さまのようになれない私です。
南無阿弥陀仏、お恥ずかしいですね。
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