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多聞の力

皆さま、こんばんは。

葬儀やご法事の場でお焼香をされる機会があると思いますが、どうしても浄土真宗は一回焼香で、他宗のお坊さんは三回だったり(二回の場合もある)かご存知でしょうか。焼香の際に磬を打ったら必ずお経を読みましょうね。つまりお焼香だけする人は磬は打たないのが正式だと知ってください。

浄土真宗は回数ではなく、香を点ずるのは良い香りを仏さまにお供えするという考え方であります。お浄土には良い香りがあり心が常に休まるような世界とも言われます。ですから、大切な人のためには良い抹香を買い求めたいですね。

(抹香は安いものは煙たいのが基本です)


初盆などでご親戚やご友人が何か買ってくださると言ってくれたら是非、抹香をお願いしたらいかがでしょうか。もちろん盆提灯もいいです。但し白無地は初盆しか使えませんので、色付きをお願いしてください。(色つきの○○でいてくれよ🎵)

でも、決して無くてはならないものではありませんので、住職は伽羅か白檀の抹香がオススメです。薫玉堂というお香の専門店が西本願寺の真正面にあります。通販もあると思います。


さて、お焼香を三回するには当然意味があります。

仏教徒を表す「仏」(仏さま)・「法」(教え)・「僧」(仏の教えを伝える僧)に帰依することで【三宝】(さんぼう)と言います。

帰依の原語はナマス、漢字では「南無」と書きます。

【仏さまを信じて、仏さまの教えに従い、仏さまにすべてを捧げること】を仏教徒と

言います。

ですから、仏さまを信じていない、教えも聞かない、お坊さんも敬わない、そのような人は三回も抹香を焚べる必要はありません。少し乱暴な表現ですが【帰依】とはそういう意味ですし、南無阿弥陀仏とお称えすることもこのような思いがなければ口に称えることは難しいのですね。

浄土真宗は阿弥陀如来の他力の信心を頼りにすることを大切にします。


門徒もの知らず・・・は、こういういわれを知らずにいることを良くない意味で言われた言葉です。「門徒というのにもの忌みを知らない」ということですから。

お浄土には往生させていただくというべきなのに、「あの世」と言ったりすることも同じ意味でしょう。この辺りは日頃からの仏法聴聞を心掛けることが大事だと思います。


暁烏敏さんは、

「自ら僧に帰依したてまつる、当(まさ)に願わくは衆生と共に、大衆を統理して、一切無碍ならん」(三帰依文)

この僧に帰依する心持ちから、大衆を統理して一切無碍ならん、ということがどうして出てくるかというに、それは、多聞の力ということにあるんです。

政治をするということは聞こし召すということである。人を治めるということは人の心を開くことである。一切の大衆を統理するということは、大衆の言い分を聞くことである。蓮如上人は、どんなもののいうことでも聞くことにつとめておいでになった。それが真宗の繁昌を来たした一つの素因であります。

一軒の家の住人でも自分の我意を通そうとするところに破滅があるのです。

家内中のものの言い分をじっと聞くというところに、一家の主人の仕事がある。

一家の人の言い分を善だの悪だのいわないでもよい。じっと聞いておればよい。

ところが、それは、なかなかむずかしいものです。われわれには何か黙っておれぬものがある。人のたのまむことでもくちばしを入れて干渉する。


善いじゃの、悪いじゃの、わかりもせぬくせにくちばしを入れたがる。

自分のこともようわからぬのに、人のことが何がわかる。

ところが、人のことは静かに聞いておれぬものです。半分も聞かぬうちに、心がせかせかして何かくちばしを入れたくなる。


菩薩は静かに聞くのです。十方衆生と呼びかけられる阿弥陀仏は、万人の言い分を静かに聞く方である。聞いてばかりおるのは何も活動でないようにみえるが、それが大活動なのである。どっちかというと話を聞かしてくれる人よりも、聞いてくれる人がほしいものです。

と、おっしゃいます。「仏説無量寿経講話・下」1930(昭和3年)


これを読んで私は耳が痛いのであります。

人の話を聞かずによく喋る悪いところがございます。

お恥ずかしいですね。でもこうやって56何年生きてきたのでみなさまに許されてきたのですね。勿体ないです。ナンマンダブツ

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