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執筆者の写真超法寺の住職

団扇好評

皆さま、おはようございます。

久しぶりに雨が降って少しは秋っぽくなってきましたね。ただ気温は相変わらず高いようなので油断大敵です。


さて先週久しぶりに築地本願寺へ行ってきました。事務棟に設置してあるラックに首都圏都市開教布教所のリーフレットがありますが、超法寺はオリジナル団扇も置かせていただきましたが、見事に無くなっていましたね。

恥ずかしいけど嬉しいですね。

追加で置いていただきましょうか。


さて、私たち浄土真宗のみ教えは私の修行、信心には用事がありません。すべて阿弥陀如来のご本願におまかせしていく教えであります。

死ぬまで煩悩から離れられず、自己中心的なものの見方しかできない悲しき煩悩具足の凡夫であります。しかしながら凡夫であることを仕方ないと開き直る方が意外に多いように思います。

どうも阿弥陀如来をこちらに寄せていないでしょうか。それは自力です。

私が頑張ると「地獄」が近づくのです。


ただ念仏して•••••が他力の道です。


私の日暮しの中で南無阿弥陀仏を称える機会を大切にしていますではなく、南無阿弥陀仏を称えながら用事を勤めていますが他力です。

お仏壇の前やお墓の前でしか称えることの無いお念仏はたよりないと思います。

ま、お念仏が申されないよりは良いとは思いますが。


今は亡き、熊本県阿蘇の工藤義修先生はいつも口に南無阿弥陀仏が申される方でありました。

「先生、こんにちは」

「南無阿弥陀仏」


「先生、こんばんは」

「南無阿弥陀仏」


「先生、おやすみなさい」

「南無阿弥陀仏」

いつでもお念仏を口にされていました。

と言っても、ちゃんと会話はあるのですよ。

ただ、何を話しても常に南無阿弥陀仏を口にして居られました。

私はかなり先生にお育ていただきました。


まさに「正信偈」の【常照我】(常に我が身を照らすなり)でありますね。

【大悲無倦常照我】

阿弥陀さまは遠くにおられるのではありません。南無阿弥陀仏の声となっていつも私の側にいてくださるのです。

ご一緒だからこそ安心なのですね。


親鸞聖人は、ご和讃に、

「南無阿弥陀仏となえれば、十方無量の諸仏は、百重千重囲繞して、喜びまもりたもうなり」と、おっしゃっています。


これが安心(あんじん)のお心であります。

「お念仏はいつまで称えるのですか?」

【宝物になるまでですよ】


皆さま、南無阿弥陀仏が皆さまの宝物になっていますか?

まだ呪文ではないですか?

私の損得の価値観に南無阿弥陀仏を用いているうちは他力にはなりませんよ。


親は、親を呼べば動いてくださるのではないですよね。あなたの親になったよ、と親が先に名乗ってくれた時から親は子どもが望む前から我が子のために動いてくださいます。これを親と言います。

頼まなきゃ、お願いされなきゃ動かない親ならば、それは親でなくても家政婦でも用事が足りるのです。


さて今日も、阿弥陀如来の本願を信じて、南無阿弥陀仏を称えながら強く明るく生き抜きましょう。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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