top of page

受け念仏

皆さま、おはようございます。今朝も寒くなりました。

また雪が舞うそうですね。今回は時間的には短いそうですが、南風は吹くと雪になりやすいそうです。しかしながらもう確実に春です。雪を楽しもうかと思います。

私たち念仏を申す者は、常に報恩の気持ちから念仏申すべきであります。

人間とは常に寂しさから逃れられず、孤独感からも逃れられないものです。

だからこそ、常に独りじゃない、阿弥陀さまと一緒に生きているんだという思いを忘れずに生きていく必要があるのではないでしょうか。

死ぬまで煩悩から離れられない凡夫たる人間がそもそも命終わって輪廻転生を脱却して往生するには阿弥陀さまを我が身にいただくことが必須です。

遇わせていただき阿弥陀さまと常にご一緒であることを知っていくことが必要であります。そこに気づくことができれば、常に阿弥陀さとご一緒の歩みであります。

必然的に嬉しいこと、有り難いことを知りますよね。

嬉しい思いが常にあることは号令をかけられたからのお念仏ではないはずです。


ですから浄土真宗の教えが【土德】として生活に密着している地域ではお念仏の声が豊かに響きます。ご本山の法要やお晨朝(朝のお参り)では明らかに周りのお念仏の声とは違う独自のお声が響きます。

私はそれがずっと嬉しくて有り難くて真似して来ました。

両親の郷里、広島ではこれがごく当たり前にありました。

嬉しい思いの念仏が響くお堂、これが超法寺の夢です。


しかしながら残念なことにこのお念仏の声を「うるさい」と罵る方が土德のない地域の念仏者から出ていることも忘れてはなりません。

最近お念仏の声が少なくなったと言われています。そのためか「ご一緒にお念仏申しましょう」という号令が定着しています。私には違和感です。(悪口ではありませんが)


だって子ども時分からずっと普通にしてきたお念仏を申す声が今では希少な存在になったのですから。蓮如上人は、「ご恩報謝の念仏とこころうべきなり」と、おっしゃっておられるというのに。布教の場でも「肝要は拝読の御文章にて」と布教使さんがおっしゃっているのにお念仏を自らが喜んでいく時間があまりに短い、そのように感じるのは私だけでしょうか。

受け念仏ってそういう自身が有り難いと喜んでいくものではないでしょうか。


これはお寺さんの集まりの場でも痛切に感じています。

寂しいです、わたしは。


今月は春のお彼岸です。

「お経」というのは「仏の教え」です。

「戒」というのは「戒め」です。

私たちはそれを尊ぶ。

宇宙の中に流れている大きな法則は、自分の力では探り出すことができないのです。

もしそれができるとしても容易ではありません。

教えというものを受けねばなりません。これが今で言えば「教育」です。

教育は先に行った人の経験を、自分の糧にさせていただくのであります。

そして自分の得た力を子孫に伝えるということが教育というのです。

先祖の力をいただくことなのです。それがいつの間にやら違う方向に進んでいるのが教育の暴走となっているのではないでしょうか。教育の名の下、教育は本来は各家庭にてじいちゃん、ばあちゃんが生き方の中で培ったものを生活の中で子々孫々に伝えていっていたのではないでしょうか。

お念仏申す声も、そのような日々の生活の中で背中で声で見せてくれていたのものではなかったのでしょうか。それが核家族化によって失われてしまったのではないかと思うのです。


自覚された仏さまの自覚そのままの、み法(のり)そのままの尊い教えを仰いでいく。

そして仏の経験から、道を求めるものはこういうことをしてはならないぞ!こういうことを慎まねばならないぞ!こういうことはしなくてはならないぞ!といろいろな戒心(かいしん)となってあることを学ぶのですね。

このような尊い先覚者の教えの鏡に向き合っていくことを怠ってはならないのです。

常に自覚せよ、自分で気づかねばならないぞ、との戒めを思い出す機会、その一つがお彼岸の法要なのです。お墓参りだけではそれは実践できません。

心得たいものですね。南無阿弥陀仏

閲覧数:15回

最新記事

すべて表示

死後の世界

人間に生まれることは難しい。 「礼讃文」(らいさんもん)には、 人間に生まれてきて仏法に遇うことはまたかなり難しいことである、人間に生まれてきた今ら仏法に遇うて救われなかったならば、もはや私が救われることなど望めません。 [三帰依文](さんきえもん) 人身(にんじん)受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く。 この身今生(こんじょう)にむかって度せずんば、さらにいずれの生(しょう)に

Comments


bottom of page