皆さま、おはようございます。
今朝の入間市は雨、寒いです。
朝からガタブルしています。
昨日は結局11.799歩も歩きました。
朝起きたら足の裏が痛い、痛い。
さて、実は昨日ご本山のお晨朝の際に教師修礼の方々の中に以前、築地本願寺に奉職されていた方がおられたのでした。
私が専従員候補者として築地本願寺へ入ったのは時期に同じくして入った同期でした。
「末田さん、もしかしてお晨朝にいましたか?」ってSNSで言われました。
世の中狭いですね。
また高校の同級生も同じタイミングで聞法会館にいたらしい。これもニアミスだった。
会いたかったなぁ。
しかしながら【会う縁】がなければ会うことができないのです。
私たちが日々顔を合わせることができているのは、会う縁があればこそであります。
縁が無ければ会えないし、縁が無くなればこの世でも会えなくなるのです。
偶然でも、たまたまでも、当たり前でもないのですよ。
因果の道理の中に私たちはお互いに身を置いているのです。
◉「生きてよし 死してよし」
[浄土真宗の利益(りやく)]
南無阿弥陀仏を称えているのは、阿弥陀如来のはたらきが私に届いている姿です。
私を往生させようとしている仏さまがいることを私に知らしめようとされておられるのです。
この世で〈往生決定〉[おうじょうけつじょう]すると、愚かな私に(私たちは自分が愚かとは思っていないが)阿弥陀如来が常に寄り添っていてくださることを喜ぶことはできるのです。
また、この世の縁が尽きた時に、私を迎え入れてくださる浄土の世界を持つことができる。
【生きてよし、死してよし、生死(しょうじ)の峠に立ちて、ただ念仏す】
【み仏をよぶわが声は、み仏のわれをよびますみ声なりけり】甲斐和里子
この度のきょうだい揃ってのご本山参拝(きょうだいのみ)では人生初の出来事でした。
これはまさしく両親からのご催促を受けてのことであったと私はそう思っています。
親鸞聖人は、ご和讃の中に、
【南無阿弥陀仏称えれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して よろこびまもりたもうなり】と申されます。
つまりは諸仏のはたらきが私たちに届いたからこそ会うことができたのでしょう。
ということは、あのお父さん、お母さんは諸仏の方であったことは間違いないと思います。
我が父母なればこそ、私たちは南無阿弥陀仏を称えられるようになれた、そうでなければお念仏を尊いとも、お寺参りが有難いなどと思うはずもないのですから。
親鸞聖人は、不思議を通り越して【不可思議】と、おっしゃっておられます。
素晴らしい仏縁に遇わせていただきました。
この度、姪が3人きてくれました。
きっとこの先、大人になった時、この度のことを思い出してくれて、改めて大切に感じてくれたら私は嬉しいなぁ。
そんな京都での一日でありました。
皆さまも、南無阿弥陀仏を聞くことができるのは知らず知らずのうちに身近な人がそう仕向けていてくださるんだと思って大切にしていただけたら有難いです。
南無阿弥陀仏
Comentários