35年の間柄
- 超法寺の住職
- 4月24日
- 読了時間: 3分
皆さま、こんばんは。
夜は冷えますね。寒暖差の影響か喉が痛くて咳が出ます。体調崩しているようです。
明日は定期検診で千葉市まで行きます。
三ヶ月に一度でありますが故郷へ行くのはやはり嬉しい。
正直年々身体が辛くはなっていますが、千葉大好きな私としてはとても大事な日であります。
まさか大好きな千葉を離れることになるとは不思議なものですね。
先日、中仏のクラスメイトと談話していた時、「末田さんとは35年の付き合いですよ」と言われました。時の過ぎるのは過ぎてみると早いものです。私の人生で35年もお付き合いをしている人は家族きょうだい以外では彼だけです。
千葉を離れても未だに私と変わらずお付き合いをしてくださる貴重な存在だと思う。
奥さま(坊守)も独身の頃からお付き合いがありました。二人ともかけがえのない友人です。
これもなかなかないご縁です。
きっと皆さまにもそういう方はいらっしゃると思いますが大切にしてくださいね。
ましてや南無阿弥陀仏をいただいている関係者はお浄土に参る前からの仏縁となりますから、諸仏のはたらきでは無いでしょうか。
未だに不安定な寺院活動の中を、彼は様々な形でお支えくださいます。有難うございます。
遇い難い人との出遇いは変え難いものです。
心に残った詩を紹介します。
「ものをとりに部屋へ入って、何をとりにきたか忘れてもどることがある。もどる途中でハタと思い出すことがあるが、そのときはすばらしい。身体がさきにこの世に出てきてしまったのである、その用事は何であったか。いつの日か思い当たるときのある人は幸福である。思い出せぬまま僕はすごすごあの世へもどる」[杉山平一『生』]
私たちは誰もが生まれた目的も意味さえも知らないままに、身体が先にこの世に放り出されたようなお互いですね。
「何のために生まれてきたなだろうか?」
こうして生きている間にその答えに出遇うことがなければ、どれだけ長生きをしようとも、どれだけお金を稼いて裕福な生活をしようとも、人生を終えていくその時に、「私の人生は何だったのか」と虚しさを感じたままの人生の結末を迎えることにはならないだろうか。
仏法を聞くということは、「南無阿弥陀仏」の声が私に「あなたが大切だ!」という仏さまの叫び声であります。
「まかせよ、救う」
その仏さまに出遇うことが「生まれてきて良かった。私は私でよかった」という人生のファイナルアンサーになることができるのでは無いでしょうか。そんな気がする。
独来、独生、独死の私ですが、その私に阿弥陀さまの南無阿弥陀仏の声が常に寄り添いながら人生をご一緒に歩んでくださいます。
南無阿弥陀仏「有難うございます」と感謝の声を称えながら「モヤモヤの欲」を抱えながら今を生きていくのです。
昼間に彩の国入間公園へワンちゃんたちとお散歩していたら、チューリップが綺麗に咲いていました。「どの花見ても綺麗だな🎵」
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
Comments