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24年ぶりの再会

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんばんは。

夜分遅くに失礼します。

今、広島県呉市に来ています。

ここまで約12時間、なかなかハードな

時間、車を走らせてきました。

途中雨にも降られ安心安全運転でした。


明日はお天気回復するようなので、晴れ男の本領発揮といきたいですね。

さて、今日呉市に来たのは本願寺派布教使補研修の同部屋の長岡さんに逢いに来たのです。

平成11年に布教使任用されて24年ぶりにやっとあえました。

今までは電話やSNSでの会話しかなく実際に逢うのは実は研修以来ということでした。


食事をしながら大ジョッキを片手に色々語り合いました。酔っ払いですわ。

ま、今回は日本酒スルーだったので酔いは限定的でしたよ。

彼のお寺は真宗木辺派ではありますが、同じく親鸞聖人のみ教えを仰ぐお互いでありますので何も問題はございません。


【ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、極楽に往生すべきように思いはんべり。それはおおいにおぼつかなきことなり。】[御文章]


【他力の念仏】

阿弥陀仏のはたらき(力)を他力という。


阿弥陀仏の力によって、無明の闇という暗い心が破れてしあわせになった人は、その嬉しさに南無阿弥陀仏と念仏を称えずにはおれなくなります。念仏は、阿弥陀仏への御礼の言葉なのです。

だからお参りするときに黙ってする人は、そんなに嬉しくないということだと思います。


御礼は、日本人なら「有難う」、アメリカやイギリス、オーストラリアなら「サンキュー」、フランス人なら「メルシー」、中国人なら「謝謝」と相手によって変わりますよね。

【阿弥陀仏に対して、南無阿弥陀仏と称えることが御礼なのです】


無明の闇が破られるとは、苦しみの元凶であり一人ひとりが持っている暗い心であります。

その無明の闇が破られるとどうなるのか。


親鸞聖人は、『教行信証』の冒頭に、

【難思の弘誓(なんしのくぜい)は難度の海(なんどのうみ)を度する大船 無明の光明は無明の闇を破する慧日(えにち)なり】と、教えられています。


親鸞聖人は、阿弥陀仏の力によって、苦しみの元である無明の闇が破れて、本当のしあわせになり、自力の念仏から他力の念仏を称える身になりなさいよと、教えてくださいました。


⭕️南無阿弥陀仏は、一言で言えば【しあわせになれる特効薬】なのです。


明日は父の出身寺へ行ってお掃除やお花を活けたりします。

おやすみなさいませ。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、な

 
 

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