top of page
執筆者の写真超法寺の住職

黙〜ってってどうなの?

皆さま、こんにちは。今日は一日雨でしたね。こんな日はお家でゆっくりがお勧めです。今日から5月というのに、私の身体は正常には程遠い状況です。

保険屋からはちょっと寒々した応対をされ大いに傷ついたのでありました。

確かに人の痛みなど他人にはわからないですからしょうがないのかも知れませんが、言葉一つで全然違ってしまうものです。言葉って大事だと痛感したのでした。


今日は久しぶりに新居へ行ってきました。だいぶリフォームは進んでいるようでした。水回りは基本的には順調な感じでした。2階のトイレも新設されていました。

また明日には荷物を持って行こうかな。

さて最近も感じるのですが、食事に行くと皆さん、お会計をされる際、大方が無愛想に必要以上の言葉を発しないように見受けられます。

これって側で聞いていてあまりというか感じが悪い気が私はします。

黙って会計前に並び、黙って支払いをして、黙って帰っていく。

大人がそれでいいんだろうか。

感謝するってそういうのとは違う気がします。

私は 「ご馳走様」「ありがとう」を絶対に高らかに言いますよ。

何なら食事の言葉も言っている。

これは別にお寺さんだからじゃないよ。

中には恥ずかしいからと言わないお寺さんがいるという。

これって何のための食事の言葉だろうか。


他人のために「いただきます」「ご馳走様」をいうのでしょうか。

違うと思いますよ。私たちは残念ながら自分で命を保つことができません。

他の命をいただくことでしか、この命を保つことができないのです。

だから、ごめんなさい、あなたの命をいただきます。決して無駄にはしません。

そういう思いが込められているように思います。

少なくとも我が親はそうやってこの私を育ててくださいました。


 深くご恩を喜び、有り難くいただきます。


当たり前ではないのです。お金を出したからお礼など言わなくてもいい、そんな論理で言葉を交わせないのなら人間は悲しい生き物でしょう。

「有難い」とは、「有ることは難しい」のです。

ここで巡り会えたことは素晴らしい出会いだったかも知れないよ。

あなたに会えたから嬉しい。人は縁あればこそ出会えた。出会えたがいずれ別れていかねばならないお互いで有るならば、もっと出会いを大切にしたいと私は常々思っています。黙っているよりも、声を交わせば幸せな気分になりませんか?

私はそう思っていますよ。挨拶もお礼の言葉もない寒々な人生は私は歩みたくはありません。


特に南無阿弥陀仏を我が身にいただいて生きていくことを知らされている私は、一人ではありません。常に阿弥陀さまと二人連れの頼もしい人生であります。

阿弥陀さまとご一緒とは喜びの人生であります。

 南無阿弥陀仏称えれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して

 喜びまもりたまふなり  「ご和讃」


これは迷いの中に埋没して生きている人間には到底分かり得ないことかも知れない。

それでいいのでしたら私の出番はございません。

でもはっきり言っておきますが、自力では救われることはありませんし、喜びの人生を生きていくことも難中の難であると知っておいてください。

言葉を超えた【法】が南無阿弥陀仏となられたからこそ、私は南無阿弥陀仏のお名号に救われていくのです。究極のところ、人間の言葉では人間は決してたすからない。

この助からない私がいればこそ、助からないような生き方をしている私がいればこそ、阿弥陀さまの【法】が言葉(声)になってくださったのですから、これを自分勝手な論理で私物化にしてしまっては親たる阿弥陀さまの大切な慈悲心を盗んだことになります。五戒に「不偸盗」(ふちゅうとう)とありますが一番いけないものです。


親鸞聖人が自力心を嫌われたのは、もちろん救いの因とならないからであり、仏法を私物化「自力心」することを戒められたということを思うのです。

責めるのではなく、自身の生き方が阿弥陀さまのお心に叶っているのだろうかと、自問自答していきたいと思うのです。


私たちも家庭で親の親心を無視して自分勝手に立ち振る舞い、自分勝手に生きて誰もが幸せになるのか?どうでしょうか?

私はそうはならないと思うのです。親は我がのために自身を犠牲にしても我が子の幸せを優先して心を砕いていくのではないでしょうか。それは短絡的には喧嘩になったとしても将来的には気づいて行ける世界があるのではないかと私は自身を振り返ってそう思うのです。

だからといって皆様もそうだという気はありません。

恩師は、仏法は遠い世界の話ではないぞ!私の身近なところに答えはあるのだから、決して粗末にしてはならないぞ、とご教示くださいます。


近頃では、子どもに「お礼を言いなさい」などという親御さんがいますが、私は違うと思う。きっと親が日頃からお礼を言う習慣がないのではと思います。

これも私の勘違いなら謝ります。

心から嬉しい、有難いと思ったら、人から促されなくても自然に「有難う」って声になるはずだと私は思います。

南無阿弥陀仏と阿弥陀さまにご先祖に御礼を言うのがお念仏であります。

【御恩報謝の念仏】と心得べきなりと蓮如上人はおっしゃいます。

もう一度、感謝するってどうことだろうかみんなで考えてみませんか。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

閲覧数:16回

最新記事

すべて表示

Commenti


bottom of page