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執筆者の写真超法寺の住職

高源寺布教

更新日:9月24日

皆さま、夜分に失礼いたします。

昨日は久しぶりに法話会に出向させていただきました。

その場を与えてくださったのは、常日頃からお世話になっている都市開教の大先輩であります。幾度となく布教へ呼んでくださっています。この度お聴聞くださった方々は常連さまを含めて満堂でありました。こんな私の法話で勿体ないですが有り難く思いました。この度は「盆法要」でしたのでお盆のおいわれをお取り継ぎいたしました。ご讃題は、「礼讃文」をいただきました。先のブログで紹介していますが遇い難い仏法に耳を傾けていく世界です。煩悩から逃れることのできない、つまり悟りから一番遠い存在の私たちである自覚と目覚め、これがお聴聞の醍醐味ではないでしょうか。

決して形だけのお念仏を称えよとはおっしゃってはいないのです。

いいところに行けるから称えるんじゃないし、この苦しみから脱却するためでもないのです。どうしてもここに執着してしまいがちであります。

親鸞聖人は、「本願を信じて念仏申す」とおっしゃっておられるのです。

ただこれは称えろではないんですよ。本願を信じてですから他力をおっしゃって。

それを自力でやろうとするから難しくなって、わからなくなってしまうのです。

本願力なのですよ。例えもこういうものなんだと聞いていただきたいのですが、どうしてもこっちに置いて聞いてしまう。だから布教って本当に難しいものです。

阿弥陀さまのおっしゃっておられる世界を聞いて「そういうものだな」と耳を傾けていくのが仏教の道です。決して隣のおじいちゃんや、おばあちゃんの力で往生するんじゃないんです。仏法を喜んでお念仏を申された方のお言葉であればそれもありましょうが、そうでもない人に頼ってどうするのでしょうか。


親鸞聖人がおっしゃる浄土真宗の世界は、【御同朋〔おんどうぼう〕、御同行〔おんどうぎょう〕、みんなでお念仏を称えて、みんなで喜んで、お浄土まで共にお付き合いをさせていただく仲間を作ろう】というものではないのでしょうか。

ここがどうも取り違っているように思えてならないのです。

私の好きな人、私の都合の良い人、そんな人との仲間作りを言われたんじゃないんですよ。形だけの仲間ではありませんよ。だってお浄土までご一緒なら歩み方も変わるはずでしょう。それなのに結局は自分の都合を最優先にして生きていく。

そんな殺伐とした世界を親鸞聖人はおっしゃったのではないのです。

ここを他力本願は【仏力】というのです。

私の力や凡夫の力に頼っていくのではありません。凡夫は悟りから最も遠い存在であると先ほどお話ししました。それなのに口先だけでお念仏を称えてどうやって往生するんでしょうか。そんなもの通用しませんよ。

親鸞聖人の他力の教えは【他力とは如来の本願力なり】とはっきりとおっしゃっておられるのです。ここを忘れてはなりませんよ。


往生したら行きっぱなしではない、還ってくるのです。

お盆だから馬に乗って還ってくるんじゃないんですよ。

いつでもどこでもこの私や間違った生き方をしているこの世界に阿弥陀さまのご本願をお伝えするために南無阿弥陀仏の声となっていてくださるのです。

こういう世界こそ本当の真実ではないのでしょうか。

しんどいこの世から逃れるためにお念仏を称えて、そんな凡夫の世界の延長の話ではないのです。こっちに置いて語ると全部、地獄になってしまいます。

こっちではなく、そのままあちら、阿弥陀さまの世界に身をおいて生きていくからこそ、苦しみを抱えたまま喜び、幸せになっていく世界がお念仏の世界ではないのでしょうか。


この阿弥陀さまのおっしゃっておられる世界は、死を逃れるためのものではありません。ここを聞き違いしてはなりません。ホンモノの宗教とは、【死と向き合える】、常に死を置いて語られていく世界です。あっち行った、こっち行ったじゃないんです。浄土へ参るとは、往相還相、二つの回向ありとはっきり申しておられます。それなのに行くことばかり言っていませんでしょうか。この穢土という迷いの世界に還って来て、阿弥陀さまの法をお伝えしてくださるはたらきこそ大切なんです。

生きていくとは常に苦とご一緒です。避けられない、例外もない。

仏教はここを誤魔化さないでハッキリというのです。だから真実の世界なのです。

だって誰でもいつまでも元気でいたい、お金のも困らずに、ピンピンコロリを期待しています。でもニュースを見ても、そうはならない。

【死は必然】今日でも明日でも、なんなら明日の朝、目が覚めないかもしれませんよ。でもそういうことは自分だけはないなどと思って生きていませんか。

今という時間はいくらお金を払っても二度とないのですよ。後悔しても人間は前を向いて生きていくしかないんですよ。ここがどうも問われていない気がします。

若気の至りっていうけど、私はかなり後悔していますがみなさまはどうですか。

若い人にこそ仏法に遇って欲しいんです。もちろんお年寄りもこの事実に背を向けて欲しくはありません。遊びも大切でしょうが、そんなことをするために生きているんじゃないんですよ。この世に生まれて来た意味を知ること、どこへ向かってどこに行って、その先はを問うていくことこそが大事でしょう。


こうやってブログを書いている私も縁が尽きたならばそうなっていきます。

例外ではありません。どうなっていくのか、どこまで生きていけるのかわからない。

でも、今こうやって寺院活動をさせていただけているのは、私なりの仏法をお伝えして阿弥陀さまや諸仏の方々の還相のおはたらきのお手伝いをさせていただいているのではないかと思うのです。違いますかね、これは妄想でしょうか。

でも、一人でも多くの人に阿弥陀さまの本願力にお遇いしていただいて、生まれてきて良かった。生きていて良かった、あなたに逢えて良かったと思えるものをお伝えしていきたいというのが正直なところです。超法寺は決して大きなお寺でも立派でもないですが、どんな人にも安らいでいただける、笑顔になれるそんな清涼水みたいな存在になれたらいいな、と思いながらいます。

きっと先人たちのお念仏をお喜びくださった世界とは自分だけではない、死と向き合って生きる素晴らしい世界ではないのでしょうか。


こんなことをお取り継ぎさせていただきました。

倶会一処〔くえいっしょ〕の世界であります。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

おやすみなさい。

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