皆さま、おはようございます。
秋晴れですね。ありがたきしあわせ。
今日もできることをさせていただきます。
さて今日は宗門としてはまだ認められていない案件について私なりの思いを話したいと思います。
決して宗門批判ではないことを先に断っておきます。
私は阿弥陀如来さまは、六道(地獄•餓鬼•畜生•修羅•人間•天上)の衆生(いのち)を導くおはたらきの仏さまと仰がせていただいております。
仏教では、畜生(犬猫、家畜、虫など)はすくわれないと言われます。では人間は救われていくのに、どうして畜生は救われないのだろうか。
諸先生方々の見解を拝見しますと、犬猫はそもそもお念仏を称えられないのだから救われないと言われています。ん?何か違和感。
人間は全ての人がお念仏称えるのかな?
確か経には、【聞其名号】(もんごみょうごう)とあり、南無阿弥陀仏を聞いただけで救われていくといただきます。
では人間だけしか南無阿弥陀仏を聞くことはできないのだろうか?
阿弥陀如来さまのご本願のはたらきは限りがあるのだろうか。
昨今の少子化の中、既にペットは家族の一員として格上げされています。
現実に、ご先祖の法要と同じくしてペットの合同法要が営まれている。
親や子どもにはお金を使いたくないが、可愛いペットにはたくさんお金を使って弔いたいという。
私は仏縁を結ぶ入り口はどこであってもいいと考えています。私自身も子どもがなく豆柴犬が子どもであり家族であります。
普通に子どもがおられる方々にはご理解いただけないでしょうが、このような方が実は主流になりつつあるように感じる。
そこには救いはないのだろうか。
善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや
『歎異抄第三章』
仮に畜生道に堕ちたものであろうと、生きている者が南無阿弥陀仏を聞かせることで阿弥陀さまのおはたらきをお届けすることはできると考えます。
飼い主さんは、ペット「うちの子」があの世に行けるようにきちんと弔いたいと言われている。
この人たちに、ペットは畜生だから救われないとはねつけるのでしょうか。
聞いた話だが、某住職は、「仏教教義上、人間とペットがあの世で再会できるなどということはありません。人間とペットの骨を一緒に埋葬すると、隣のお墓の持ち主が嫌がります。」などと言われます。
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こんなことをいう住職に失望して檀家をやめる事態にもなっていたりする。
さて余談ですが、こんな驚くこともあります。
《飛鳥時代に造られた「義犬」の墓》
現存する最古のペット墓は、大阪府岸和田市にある義犬塚古墳と呼ばれる犬を埋葬した円墳だ。
造られたのは飛鳥時代、六世紀後半にさかのぼる。
言い伝えによると、蘇我氏と仏教導入をめぐって争った物部守屋の側近に、捕鳥部萬(とりとりべのよろず)という人物がいました。
守屋が討ち取られると、萬は自決。
飼い犬のシロは主人である萬の首をくわえて持ち去り、土に埋めたという。シロは、その墓の前で主人を守ろうとして動かず、餌にも一切手を付けず、そのまま餓死してしまった。
朝廷は「犬畜生ながらあっぱれ」として、シロの古墳の造設を認めた。現在、古墳の頂部に萬とシロの墓碑が立っている。
毎年秋には、萬家の子孫である塚元家で、萬とシロを偲ぶ集いが開かれている。この法要は萬の没後1500年近くも途絶えることなく続けられているというから驚きである。
皆さまはどう思うでしょうか。
ご先祖のお墓や年忌法要をきちんとされていますか?50回忌が済んだら法事は終わり!なんて言っていませんか?50回忌が済んだら50年毎に勤めていくのですよ。
私たち日本人は、「つながり(縁、共生)」を強く意識する民族である。
その縁で結ばれた存在の死に対して、常に丁重に弔ってきたのです。
家族として扱っているペットを救いから外していく中にどうやって阿弥陀如来さまの【大慈悲心】の素晴らしさを伝え説いていくのでしょうか。
今だからこそ、真摯に向き合っていく時ではないだろうか。宗祖親鸞さまはいかように語られるのだろうか。やはり畜生道に堕ちたものは捨てておけと言われるだろうか。
私は「否」だと思います。
お念仏も申さない名ばかりの浄土真宗の門信徒が救われて、南無阿弥陀仏を日々側で聞きながら日暮しをしているペットは救われないなどという論理にはどうやってみても疑念を持たざるをえないのです。
あらゆるいのちにはたらくいのちこそ阿弥陀如来さまのご本願ではないでしょうか。
【あらゆる】から畜生道が外されていてはならないと私は考えます。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、なんまんだぶつ
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