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領解文、新しかろうが古るかろうがこれしかない

皆さま、おはようございます。

今朝の入間市も寒いです。本当に寒いところへ来ました。これでもだいぶ慣れましたが。

盆地気候のため冬は本当に寒いのです。

来た当初は寒すぎて夜は凍えていました。

そう、まるで「寒苦鳥」(かんくちょう)のお話のようです。

毎日、ニトリへ行き暖房器具を買っていましたがそれでもガタブルでしたね。


周りは夕方になると台風でもないのに雨戸を閉めるのです。不思議だな〜と思いながら何も知らない私でした。一週間して試しに閉めてみたら目からウロコ、温かいのです。やっと眠れました。生活の知恵です。

これが8年前に入間市へ来た時の思い出です。


あの家はたった3ヶ月しか住まずに引っ越して今の家に来ました。とにかく反対されました。

「そこじゃ、お寺はできないよ」って言われちゃいました。

こじんまりしていたけどなかなか快適だったのですけどね。短い間でしたが色々お勉強させていただきました。


あれから過ぎればあっという間、何もできない私ですがよくぞここまでやってこれたなぁと言うのが率直な感想です。コロナ禍もあり、一人でやってきました。お寺としての活動は2年前からです。初めは築地本願寺の公開講座を飯能でやってからしばらく女性ばかりお参りくださいました。賑やかでしたが、ある時、築地本願寺で寺院化ミーティングに来てもらってから急に足が遠のいたようでした。

今考えると、皆さま超法寺のメンバーになるのが嫌だったのでしょうね。リーフレットをご近所に配って欲しいと言えば、「私、忙しいから無理です」って言われちゃったり。

「コロナ禍が落ち着いたら行きますから」と、お手紙をいただくが来ることはありません。


人間は様々なことを思い生きています。

だから超法寺は強制はしません。住職が一人で切り盛りしている小さなお寺ですから、なかなか皆さまのニーズに沿わないのかも知れません。でも私は父が生前言っていた、「来る者拒まず、去る者追わず」を忠実に実行しています。来れば嬉しいけど、来なくなることもあります。皆さま、お忙しい中を足を運んでくださるのですから。


中には具体的に「○○だから」と言われる方もあります。衝撃的でしたが、言いにくいのに言ってくださるのが有難かった。

応援したいんだ、という思いが伝わりました。

ズボラな人なので嫌な思いをさせて申し訳ありません。意識を持ってこれから頑張ります。


さて、最近SNSでやたらと投稿されている【新しい領解文】ですが、なぜここまで宗門批判をするのだろうか。してもいいけど、過激な発言をしながら実行されないご住職がウチの宗派はあまりに多いのが私には腹立たしいです。

有言実行しなはれ。やるやる詐欺は見ている側がとても不快な思いをします。

その上でSNSは宗派のお坊さん以外の一般の人も閲覧するということをちゃんと考えているのかということを私は言いたいのです。

布教先で質問されることが多々あります。

先月の築地本願寺常例布教でも聞かれました。


説明してもわからないのに、もっとわかりやすくすればいいのになぁと私は思います。

私の考える領解をご紹介します。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

ありがとうございます。

あなたの仰せのままに、私もお浄土に参らせ

ていただきます。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

ありがとうございます。

あなたの仰せのままに、私も仏にならせて

いただきます。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

ありがとうございます。

この上の称名(声に出してお念仏します)は、

ご恩報謝(お救いくださりありがとうございま

す)、分を尽くしてまいります。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


こういう表現が一番わかりやすいと思います。

どうにも表現が難しいのがお寺の悪いところ。

伝統教団も若い人に向けて表現をしていくことが求められているのではないでしょうか。

お聴聞することが身近でなくなった昨今を思えば、南無阿弥陀仏を声にしない方が増えてきた今、表現を今風にしていくのもいいのかな、と私は思います。

批判ばかりSNSでやればやるほど、浄土真宗本願寺派は社会から疎外されてしまう気がするのです。せっかく親鸞聖人が蓮如上人が、歴代宗主方々がお伝えくだされた阿弥陀仏のご本願が受け入れられずにいることは悲しむべきではないでしょうか。

私は自身が置かれている立場を考えれば、宗門批判はしなくはありません。むしろ頑張れ、と応援したいのです。だって親鸞聖人のみ教えは最高なのですから。蓮如上人のお味わいは心あたたまるのですから。領解文は、お念仏の有り難さを共に喜びを表す言葉ですから、共通共有が為されねば意味はありません。

誤解される言葉、表現は避けるべきです。


あなたも私も浄土に生まれて往きます。

あなたも私も仏さまになるのです。


このような阿弥陀仏の願いが常に私に注がれているのです。それに気づけた喜びが私は本来あるべき『領解文』ではないかと思います。

ですから、誰かに促されてお念仏を称えるのは親鸞聖人のお心にはかなわないと考えます。

やはり昔から「皆さま、ご一緒に合掌」でいいのではないでしょうか。

だって浄土真宗では、合掌=南無阿弥陀仏(お礼の言葉)が常識なのですから。


『領解文』にもありますよ、「その上の称名はご恩報謝」であると。

感謝は他から促されてするものではなく、自身の心から表れるものではないでしょうか。

阿弥陀仏のお願いをそのまま聞いて、そのまま受け入れていくのが他力念仏ではないでしょうか。それが称名のお念仏だと私は思います。


少し、生意気な過激な発言をしたかも知れませんが、私は恩師からおしえていただいた「如来の仰せ(南無阿弥陀仏)を聞く」私の領解をこれからも常に実践して歩んでまいります。

一日も早く皆さまが心から喜んで唱和できる『領解文』が制定されることを願っています。


み仏の誓いを信じ、尊いみ名を称えつつ、強く明るく生きぬきます。


阿弥陀仏の願いをそのまま聞いて、そのまま受け入れて南無阿弥陀仏を我が口に称えられるようななれましたら、【必ずお浄土に生まれて仏さまになります】これがわかるようになります。よって、「死んだらどうなるのか」、「自分はどこへ行くのか」の人生の問いが明らかにされます。

疑わずに聞かせていただきましょう。

私でもそうなれたのですから、皆さまも安心していいんですから。


南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・

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