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執筆者の写真超法寺の住職

阿弥陀さまという仏さま

更新日:2021年11月9日

皆さま、こんばんは。

《雑行を棄てて、弥陀に帰す》

浄土真宗の仏縁に遇われている方にはお馴染みのお言葉ですが、きちんと理解されている人のあまりに少なさには驚かされます。


改めて、浄土真宗のご本尊(最も大切で尊いもの)は、『仏説観無量寿経』の中に説かれている【住立空中尊】(じゅうりゅうくうちゅうそん)の阿弥陀如来です。


この阿弥陀如来さまは、そのまんまがナンマンダブツ(南無阿弥陀仏)という声の仏さまです。

《お礼を申す対象》

姿としてご安置していますが、その姿のまんまが声=ナンマンダブツの仏さまです。


色•形のある姿でもなければ、字もありません。

声の仏さまは目には見えません。


仏さまを我が身にいただいている人、信心の人の口に、声となって出てくださるのです。


色•形の姿のあるもの、目に見えるものは限られた場所にしか存在できません。

姿があると、相手と一つになることができません。

仏さまはあえて姿を消して、ナンマンダブツというはたらきとなり、衆生(しゅじょう)の心に届き、口に称えられ、私と一つになってくださるのです。


私たち人間は、一人というのが耐えられないのです。

だから家族が大切だと言いますよね。

しかし、老•病•死の現実苦は、不安と恐れの中に、一人身に受けていかねばなりません。


まさしく、

「独生独死(どくしょうどくし)、独去独来(どっきょどくらい)」。


その私に届いて、ナンマンダブツ。

「如来ここにあり」「独りではない、親がここにいる」「つれて往く」と、いつでもどこでも私とご一緒してくださる仏さまなのです。



❌私の価値観や私の常識で阿弥陀如来さまを当てはめるようとするから理解できないのです。


親鸞聖人は、ご和讃に【不可称不可説不可思議の】と、おっしゃっておられます。

全てが阿弥陀如来さまの側にあって、私のすることに用事がないと、しっかりおっしゃっているのです。

それなのに、自分という(私)実にアテにならないものをどうしても頼りにしてしまうのが凡夫の悲しさなのですね。


わからないまんま、おまかせしていればいいのです。

わかろう、わかろう。理解して安心したくなるのが自力となってしまうのですね。


❌なぜ男と女みたいなものがあるの?なければ色々言わなくて済むのに。

こんな意味のないことを一生懸命に言われる方は意外に多いですよね。

それも含めて、阿弥陀如来におまかせしていれば用事は済むのです。


南無阿弥陀仏(ナンマンダブツ)と、お念仏を申すことで解決していくのです。

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