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こちらの用事はなし

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんばんは。

今日はとても良い天気に恵まれて過ごしやすかったですね。しかしながら明日は大陸から黄砂が押し寄せるとのことですから洗濯ものの外干しや外出の際はご注意しなければならないです。

また今日は、午前中に築地本願寺とのZOOMでの会議、午後は新たなお坊さん紹介業者さんとの面談がありました。

超法寺はまだまだ業者さんからのご紹介がなければおぼつかないため少しでも多くの業者さんと繋がりを持つ必要があります。


いずれは調整しなくてはならないと思いますが、今はまだその段階に至ってはいません。

先ずはあらゆる媒体を通して超法寺住職を知っていただきご依頼をいただくことが必要であります。


さて、浄土真宗は他力本願と言って、私たちの努力や功徳によって(自力)悟りに至る教えではありません。

他力本願=阿弥陀如来のご本願におまかせして、阿弥陀如来の大慈悲によってあらゆる命をお救いくださる、ひとり働きであります。

その働きに「あう」は、「遇」と書きます。

なぜなら、この字の意味合いはこちらからの用は無しという意味です。


阿弥陀如来の働きがなければ決してあうことのできないことをいうのです。

私が葬儀や法事へ参らせていただけるのは、私を喚んでくださるからこそであります。

そうでなくては参ることはできませんから。


ですから私はいつも、故人が私をご指名くださったのだと思い、どこへでも駆けつけて精一杯のお取次をしています。

当たり前なんかじゃないし、もちろん偶然なんかじゃありませんよ。


親鸞聖人は、ご和讃の中で「釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し•••」と言われています。

【善巧方便】〈ぜんぎょうほうべん〉とは、巧みなお手回しであり、お育てのことを言います。

阿弥陀さまのはたらきを光で表して「調熟の光明」と言います。

このはたらきは、救われたものの上にだけ照らしているのではなくて、まだ救いの法に遇っていないもの、疑ってはねつけてお救いから逃げ回っているもの、法を聞かないものの上にはたらきかけて、育て上げて聞かせて救い摂っていくはたらきなのです。


生前は全く親の恩や有り難さに気づけなかったのに、色々なことを手がかりとして私の身を育てて、頷けるくらいななったとき初めて、「ああ、有難いことだったんだなぁ」ということになるのでしょう。私がまさにそうでありました。

親のいない中で日暮しを過ごしてみたり、一人で暮らしてみたり、人によっては我が子を持つことで初めて知る親の恩もあるのではないでしょうか。


当たり前じゃない、それが一番大切ですが。

親が側にいてくれたときは、何でも許されていたことだったとしても、親がいなくなれば世の中そんなに甘くはないということに気づくでしょう。

すべて自己責任、誰も守ってはくれませんよ。

失って初めて気づく親の有り難さ。


だからこそ、阿弥陀如来を親のようなものと表現するのかも知れないですね。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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