お念仏を称えるのはなぜ
皆さま、こんばんは。
今日も暖かく過ごしやすい暑さがたまらないですね。まだGWの余韻は抜けませんよね。
私は今年のスタートが慌ただしかったので先月からの比較的ゆったりとした時間がありがたく感じられていますよ。
暇だとまだまだ不安を感じます。
本当は喜ばねばならないのでしょうが煩悩具足の身ですからすぐ悩みが頭を持ち上げるのです。勝手なものですね、人間って。
いつも自分勝手な言動に振り回されています。
そう、今日は馴染みの茶園、比留間さんで新茶を購入しました。奥様に「先日の新茶まつりで苗木がもらえなかったんですよ」と、話をしたら「、お持ちになりますか?何本?」って言っていただき、3本もいただいてしまいました。
やったね、言ってみるものです。
早速、肥料を買って玄関前に植えました。
さて今回はお茶にできるまで育てられるかな。
新芽は天ぷらにしても美味しいですよ、と奥様がおっしゃいましたが、いやいやお茶がいい。
「超法寺茶」を目指そう。
なんてねー。
なるようになる、なるようにしかならないよ。
そう思っていたら、なるようにはなる。
だって阿弥陀さまがご一緒くださるのですから。私にちょうど良いようにはなる。
そこを曲げてはいけません。
戒め、戒めであります。
すべては阿弥陀のご本願の中にある私の姿であります。
間違っても、【私の煩悩と仏のさとりは本来一つ】ではごさいません。
浄土真宗のみ教えで一番由々しき言葉です。
あらゆる神が、あらゆる仏が見捨てた地獄(自業苦)行きの私の生き方、それをこともあろうに私はそれが正しいと思い込んでいるのだら始末にわるい。
凡夫(死ぬまで煩悩から離れられない、つまり死んでも煩悩から逃れられない)が誰のことであるかがわからないから阿弥陀さまが【ご本願】を誓わねばならなかったことに仏法を聞いてもわからない。
だって自分はいつも正しいんだから。
間違っているのは犯罪を犯す輩であり、私以外の誰かだなんて思って生きているのだから。
阿弥陀さまがどうして【先手の救い】を成就されたのでしょうね。
それは真実の道がわからない私がいるからですよ。
親鸞聖人は『正信偈』でも、きちんと分けてご説明されているじゃないですか。
聞こうとしない私。
聞いてもわからない私。
届けられてあるのにまだ救いを求める私。
南無阿弥陀仏を称える身になっても、愚痴や悪口が身から止まない私。
南無阿弥陀仏を称える身になっても、やはり死んだら「天国に行きました」などと言う私。
皆さまは、どれか一つでも当てはまりませんか。当てはまったらあなたの往き先は【化土】(けど)でありますから、死んでもすぐにはお浄土へは行かれませんし、もちろん成仏にもなりません。
阿弥陀さまを【疑う】ものは即得往生できません。
阿弥陀さまにおまかせして仰せのままに抱かれていくのが阿弥陀さまのお救いなんです。
こちら(私)にもってくるから【自業苦】になるのですよ。
『正信偈』には、「報化ニ土正弁立 極重悪人唯称仏」とも、「往還廻向由他力」とも親鸞聖人はおっしゃっり、すべては阿弥陀(他力)のお力によってのみであると、はっきり申されているのです。
だから私のお寺参りも、私の努力によってなされるものではなく、阿弥陀さまのおはたらきがあればこそ私がお寺へ参るようになれたのですね。つまりご先祖、父母が諸仏のはたらきとなり私を仏縁に誘ってくだされた結果だと私は領解しています。
ご和讃に、
「南無阿弥陀仏となふれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり」と、お示しくださいます。
頼みもしない私、自分だけは間違いないと自惚れて生きようとする私を心配され、自らがいのちの親とお立ち上がりくだされ、あらゆる命を南無阿弥陀仏一つで救おうとされたのが阿弥陀如来で、阿弥陀如来は姿の仏さまではなく、どんな暗闇であろうともれなく届けられるように【声の仏】になってくださったのですね。
それが私には、南無阿弥陀仏、ナンマンダブツ、なまんだぶ••••••と、愚痴の他人への悪口をいう私の口に宿っていてくださるのです。
有難いですね。
誰にでも間違いなく届けられているはずなのに、私の周りで南無阿弥陀仏を称えながら生活をされている方は少数派だと思います。
それなのに、父母、爺婆、縁者が身をかけてわがままな私の愚痴のこの口に南無阿弥陀仏を受け取らせるためにご苦労くだされたのですから。
死ぬまで煩悩から離れられない私がいるからこそ阿弥陀さまの救うてやりたいという願い【ご本願】が起こったのであり、本来一つゆえ•••••とははっきり分けていただきたいのです。そうしなくては阿弥陀さまへのおまかせや、親鸞聖人への報恩など起こるはずなどないではないか、と住職は思いますよ。
これを喜ばずに何を喜ぶのだろうか。
感謝してもしきれないほどの報恩を日々の生活の中に、浄土真宗の生活信条として、【み仏の誓いを信じ、尊いみ名を称えつつ、強く明るく生き抜きます】を私はモットーとして生きていきたいと思います。
沸々と煩悩具足の泥凡夫でありますが。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏