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阿弥陀さまから•••とおし

皆さま、おはようございます。

今日もいつも通りです。有難いです。

今日は午後から築地本願寺へ行きます。

まだまだ事務が滞っています。help me.


今朝は、西元宗助さんの、

 み仏さまから、拝まれ通し、信じられ

 通し、願いをかけられ通し


をお味わいします。

『教育と宗教のあいだ』に、

 仏さまが親さまで、われわれは仏の子だという言い方は、実はどの宗派にも通じることでありましょうが、しかし浄土真宗の根本聖典である『大無量寿経』をよく拝読いたしますと、親孝行な子どもが、自分の親のことを思い、親に使えるように、み仏はわれわれ衆生を親の如くに思うて敬愛し給うと。

 即ち原文には「純幸の子の父母を愛敬するがごとし」とあるのです。私はこの経文にゆきあたって驚き感動いたしました。と述べています。


神や仏は、こちらから拝むものであり、信ずるものであり、願いをかなえてもらうものであると思い込んでいる人が、私たちのまわりでも、当然の常識のように受け止められています。

親鸞聖人が「真実の教」と明らかにされた『大無量寿経』の上巻に、西元さんが感動されたといわれる言葉を見ることができます。


 不請の法をもってもろもろの黎庶(れいしょ)に施すこと、純幸の子の父母(ぶも)を愛敬するがごとし。もろもろの衆生において視そなはすこと、自己のごとし


如来は、衆生から請われざるに教法を開いて民衆に施すのは、あたかも、純粋に親を思う子が、その父や母を愛し敬うように、あらゆる衆生を視ること、さながら自己をみるようなものであるといわれているのです。

この場合、喩えられてある「純幸の子」は仏であり、また「父母」は私たち衆生を指しているところに、仏の大悲の深さが見られます。私たちがみ仏を拝む前に、仏からすでに拝まれていたという事実、むしろ仏からこの私へ願いがかけられ通しであり、さながら一人子のように、慈しみ信じられていたということに気づいたとき、私たちは西元さんと同じく「驚き感動」する以外にないのです。


故桐溪順忍和上は、人から色紙に揮毫(きごう)を依頼されると、いつも『涅槃経』の、


 如来の慈悲は随逐すること犢子の如し


という言葉を好んでしたためとおられました。

「犢子」(とくし)は、仔牛のこと。

仔牛はいつも親牛の後を追いしたがうように、仏は、自らを仔牛に喩えて、われわれ衆生のゆくところ、常について離れることがない。

それが如来の慈悲であると説かれていたものでしょう。


この『大無量寿経』や『涅槃経』のことばを領解(りょうげ)した妙好人の浅原才市さんは、


 わたしゃあなたにおがまれて

 たすかってくれとおがまれて

 ごおんうれしや なもあみだぶつ


と詠っておられます。


有難いお味わいですね。

【常に】を忘れずに今日も一日歩んでいきましょうか。ナンマンダブツ

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