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迷いの道はどこにある?

皆さま、おはようございます。

今朝は晴れ間が見えていますからよくなるのでしょうか。ま、無くてもなったまんまを喜びながら生きてみたいものです。

人生を生きるということは誰かに借りを作ることと言われますが私の場合は正しくそのようにしか感じられません。何も秀でたものを持たない私が今更ながら首都圏都市開教に従事ているなんて不思議だからであります。

これからの人生は借りました借りを残りの人生でお返ししていくことだと思っています。


貸し借りはなるべくフラットにしたいし、できるならば借りは少ない方が良いと思う。

清沢満之師は、[道は近きにあり、迷える人はこれを遠きに求む]と言われました。

「迷える人」は夢見る人という。

妄想に取り憑かれて有りもしないことに夢中になっているのに本人はそのことに気づいていないものなのです。挙句に逆ギレしたりする有様です。親切心を仇で返すのだが、悲しいかな仇で返しているということすら理解ができないのだから呆れるばかりであります。


迷っている人ほど、「自分は迷っていないと思う」からであります。でも実はそういう人ほど迷っているからであります。

このように「迷ってなんかいない」と思う人が一番多いのは、宗教に入って自信たっぷりな人。信仰が厚いと見られている人、宗教に入れば迷いから抜け出せるなどと思っている人ということになります。皮肉なものですね。

「ミイラ取りがミイラになる」とは、こういうことを言うのでしょうか。

迷いの道は近きにあり。

落とし穴は迷っていないと思うところに迷いがあるということです。

ここへの気づきこそが「さとり」への第一歩知れば、道は遠いところへ求めるべきではないのです。私自身を疑い、私自身を止めることであります。


恥を知らない生き方。

先程、朝のドライブをしていたら、赤信号になっていたのに当たり前のように止まる側の車が突っ切っていかれたのがそうだろうか。飲んだ帰りでわからないのか、行けるって思ったのかはわからないけど実に危ない世の中になったように感じます。きっと注意などしたら逆ギレで暴力など振るわれてしまうのでしょうね。

正論はなかなか通じない世の中であるのは先の都知事選を見ていたらよくわかります。

桜井という候補の演説がまさにそう。正論だけを振りかざして相手を打ちのめすやり方はK党がまさにそうです。しかし結果は支持されずに一票を投じてはいただけずでありました。

しかし彼の言うことには一理あります。

だからと言って認められるかはやはり違うのでしょうね。


迷いに気づくには正しき真実なる法に出遇うほかにはありません。宗教がすべて正しいとも間違えているとも言えません。ただお釈迦さまがお示しくださった道は正しく思えます。

そしてそのみ教えから他力の道をお伝え下された、七高僧さま、七高僧さまを喜び、より私たちがわかりやすいような言葉でお伝えくだされた法然聖人、親鸞聖人のお言葉をいただく中に我が身の愚かな姿に迷いの姿に気づかされるのであります。それは他人に対して非難や批判から気づくのではなく、私自身の言動から気付かされるものではないかと思うのです。


我を捨てて生きていくことができない私のために阿弥陀さまがお出ましくだされたのですが、それは仕方ないからと言って迷いに気づかない私を肯定しているわけではないのです。

親鸞聖人は「お恥ずかしい」と謙虚に生きられました。傲慢になりやすい私たちは、我が身を振り返りながら相手を想い、相手の立場になるべく立てられるように心がけていくことが大切だはないでしょうか。

でも車をぶつけられずに済んで良かったです。

これ以上は私の巨体は保てられませんからね。

と、喜びつつ今日も一日精進します。

皆さまもどうぞよき日をお過ごしください。

南無阿弥陀仏、ナンマンダブツ

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