皆さま、おはようございます。よく降りましたね。積もっていますよ。
うちの子たちは大喜びで遅くまで走り回っていましたよ。
庭駆けまわりって本当なのですね。
朝には雪かきしなくてはなりませんね。
さて、皆さまは普段、誰の名を一番多く呼んでおられますか。
「お父さん(パパ)」、「お母さん(ママ)」、「おい(妻)」、「あなた(ご主人)」、
まだありますか?
幼き頃、私たちは何かにつけて「お母さん」と言っていました。
皆さまはいかがでしたか?お父さんが多かったですか?
私は今もやっぱりお母さんですね。ナンマンダブツも多いですがお母さん。
では、そのお母さんと言っている私たちの心底には一体何があったのでしょうか。
無意識であっても、きっと「お母さんほど確かな、信頼できる、間違いのないものはない」という思いがあったのではないでしょうか。
それが大人になるにつれて「お母さん」が減り、「先生」が増えるのです。
そして「友達」となり、いつのまにか「僕が」「俺が」「私が」となるのです。
ということは、「僕」「俺」、「私」ということは他人ではなく、一番信頼できるのは「自分」であるという思いが強くなってくるのでしょうか。
それを独り立ちとか、大人になるとかいうのでしょうが、そう言った生き方で段々と
孤独感が出てくるのではないでしょうか。
人間は、いつでも一番信頼するものの「名」を一番多く呼ぶのだそうです。
仏教でいう「老」「病」「死」は、その一番信頼でき、一番確かだと思っている私自身が本当に信頼できるものふぇも、確かではないという極めて重大な事態を私たちに教えているのです。
でも本当にそうでしょうか。「僕」が、「私」がと言っている私たちは無意識の中に
自分は確かで、信頼できると思っています。
それなのに実はいかに自分が危なっかしい、不確かな存在だと知るのです。
仏教を学んでみるとそういう自分に気付かされます。
とにかくコロコロ変わるのですよ、私たちの価値観って。
「こうしようと思ったけど、こんなことがあったからもう止めよう」とか、「ああしてあげようかと思ったけど、あの人があんな態度を取るともう嫌だ」と常に移り変わっていくのです。あれだけ嫌っていたのに、こちらの都合が変わったら好きになる。あれだけ好きだったのに、相手の態度が気に入らなくなったからもう嫌い、などと日常茶飯事であります。
浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、
この世の人のこころをざるのこころのごとくさだまらずなり(尊号真像銘文)
と、私たちの心を「ざる」にたとえて、落ち着きのなさを、変化のめまぐるしさを
おしえてくださいました。
ではどうすれば本当の幸せになることができるのでしょうか。
亡き祖母が常々言っていたのは、「しわわせになりたいのなら、お前の周りの人を笑顔にしてやりんさい。そうすれば必ず幸せになるぞ」って言っていました。
昔から笑う角に福来るって言います。
親鸞聖人は、みんなのしあわせ(衆生利益)を願って、法然聖人の教えてくださった「ナモアミダブツ」のみ教えに生きられました。
門弟の唯円さまの耳の底に残った親鸞聖人のお言葉に、
浄土の慈悲(南無阿弥陀仏のみ教えに生きるものの「いのち」への思いやり)は、念仏して、急ぎ仏に(「僕が」「私が」の思いを超えて、他人事ということがなくなった方)に成りて、大慈大悲心(「いのち」への大きな思いやり)をもって、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。『歎異抄』
と言われています。
私たちも自分ばかりのせせこまい人生ではなくて、たくさんの人(お浄土までご一緒の方)のために生きていけるようにしたいものですね。
そのうえで、一番信頼できると思える人が誰になるか・・・。誰でしょうね。
南無阿弥陀仏
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