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誤解されていましたね

皆さま、こんにちは。今日は一転寒さが戻ってきました。

そして、私は身体の痛みに悶絶しております。

どうしてしまったのでしょうか。生きるとはこういうことも起こるのですね。

皆さまもご自愛くださいませ。


報恩講ですので、浄土真宗のみ教えを少しでもお伝えしたいと思います、

どうも妙好人は皆さまの興味がないことが知れました。

もっと身近な興味は何か、「悪人正機」でしょうか。


【善人と思っていることが、そのまま顛倒(てんどう)にほかならない】

The very thought that I am a good person is nothing other than a delusion.


石田慶和師の言葉です。

京都府生まれです。

『親鸞聖人と現代』にある言葉です。


『歎異抄』第三条の「悪人正機説」に出てきますが、二十一世紀になった今でも

誤解をされ続けている言葉ではないでしょうか。

皆さまはどうですか。


【善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、

「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。】


初めにこう出てきます。

世間的な悪を犯した者、悪人と言われる人がそのまま救われるといったように。

しかしながら親鸞聖人の教えは、そのような悪行三昧を奨励したりということは、

どこにも見当たりません。倫理は人間の当然の道として積極的に行うべきことを示しているのです。

親鸞聖人は、『親鸞聖人御消息』を見ますと

親鸞聖人88歳の時、乗信房に出されたお手紙(第十六通)に、

五十数年法然聖人のもとにあったときの見聞を、目の当たりに見るように、鮮やかに書き留められいます。


【学問もなく、道理の分別もできないような愚かな人が、法然聖人の教えを聞いて、素直に念仏する姿をご覧になっては、「かならず往生するでしょう」と満足そうにほほ笑まれたのを、おそばで見たのでした。反対に学問上の議論をしたり、いかにも賢明そうにふるまう人をご覧になって、「あれで、はたして往生できるであろうか」と仰せになったのを、確かにうけたまわったのです。】と記された。


それは法然聖人が【浄土教の人は、愚者になって往生するのだ】

と仰せになったのを、具体的な場面で説明する形で書かれています。


そもそも「悪人」とは、

【自らの力で迷いを離れられることのできない人】という意味です。


そして「正機」とは、「目当て、対象」ということです。


【悪人正機とは、自らの力で迷いを離れることができない人こそが、阿弥陀如来の救いの目当てである】ということなのです。


悪いことをしたほうが救ってもらえるという教えではありません。

これは、「死ねば仏」と同じような解釈でしょうか。人間とは、自分の都合の良い

解釈をしがちです。その上で自分は間違っていないと安心していこうとするのです。

浄土真宗のみ教えを聞いておられる人でも「あなたは悪人ですか?」と問われると

「悪人ではありません」と答えるんじゃないでしょうか。

どうですか?何度も妙好人の世界というブログをアップしていますが、妙好人はどうして妙好人と言われているのか?それこそ、「悪人であるという自覚」があるということではないでしょうか。自覚の上で阿弥陀如来のお救いを領解して生きておられた

のではないかと思っています。


悪人の意識のない人は、「お念仏を称えているから」とか、「お寺へいつも参っているから」とかに安心しているのではないでしょうか。

これは全部、自力ですよ。


【悪人とは、自らの力で煩悩を捨て切ることができない人】です。

仏教では凡夫とも言います。

煩悩とは、心身を煩わせ、悩ませる精神作用の総称です。

もっと簡単に言えば、「自己中心的な考えに執着してしまうこと」です。

自己中心的な考えから抜け出せないような人を悪人と表現したのです。


(地獄こそが唯一の居場所)


親鸞聖人は、ご自身のことを「極重悪人」「煩悩成就の凡夫」と捉えておられます。

凡夫とは悪人と同じように、煩悩に常にとらわれて、自らの力で迷いを離れることができない人を言います。


『歎異抄』には、「地獄は一定すみかぞかし」とあり、「地獄こそが唯一の居場所である」とまで表現されています。

どうして親鸞聖人はそのように思われたのでしょうか。

親鸞聖人自身、二十年間比叡山での自力修行をされる中、どれだけ頑張っても、努力しても、煩悩を落とし切るどころか逆に煩悩にがんじがらめになってしまった苦悩を実感されました。常にご自身の煩悩を深く正直に見つめられたのです。


阿弥陀如来のお救いは、自分の力では煩悩から離れられない人、まさに救いを必要としている人、そう言った人のために第一に心を向けていかれたのです。


「たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり」(『涅槃経』)


意味

七人が皆同じように大切だからこそ、一人が病気になってしまったら、その子をそのままにしておけないのです。

阿弥陀如来はすべての生きる存在を同じようにさとりを開かせたいと、お心を向けてくださっています。その救いから、一人もこばしはしないのです。

だからこそ、自分ではどうしようもない凡夫を放っておけないと、親鸞聖人は受けためられたのです。


親鸞聖人がおっしゃったのは、「薬があるからと言って、毒を飲むようなことをしてはならない」とおっしゃっておられるのです。


浄土真宗のみ教えは、一体誰を一番に向けておられるのか。

それは自分では煩悩から逃れることのできない私なのです。

悟りに至ることができないということは、この命終わっても地獄にしかいくことができないのに、「死ねば仏」と自分勝手な解釈で生きようとする愚かな姿ではないでしょうか。そのような生き方に戒めをくださったのが親鸞聖人のお示しくださったことなのです。

地獄で苦悩していくはずの私が、ナンマンダブツの阿弥陀さまのお慈悲を知り、凡夫のまま救われていく宝のような素晴らしいみ教えに私を誘ってくださるご先祖が有り難く思えてきませんですか?

私はかたじけなくも、我が親からそれを教えていただきました、幸せ者です。

ナンマンダブツ

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