親鸞聖人一度目の夢告

我々近代の知恵を身につけた立場からいうと、夢の中の話というと初めから本当からなという目で見るのです。


しかしながら、私たちはいつでも自分で学び、培ったものを頼りに生きようとします。そして自分は正しい、間違いないと自信を持って生きています。
だから他者からの言葉やアドバイス、意見をなかなか素直に受け止めて、受け入れることが難しいのですね。
夢についても、自分の都合によっていいもの、悪いもの、気にする、気にしない•••すがる思いで生きていた親鸞聖人が夢告を大切にしたことは、私たちには真似のできないことかも知れませんね。
さて比叡山へ9歳で修行の道に入り無我夢中であらゆるいのちが分け隔てなく救われていく道を追い求めておられました。19歳の秋、一度目の夢告は、

「我が三尊は塵沙界を化す 日域は大乗相応の地なり 諦らかに聴け諦らかに聴け我が教令を 汝の命根応(みょうこん)に十余歳なるべし 命終して速やかに清浄土に入らん 善く信ぜよ善く信ぜよ真菩薩よ」

※三尊とは、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩。中心になるのは、阿弥陀仏、阿弥陀如来です。
※塵沙界とは、汚れ、濁っている我々の生きている生き方。(本当のことがわからない。一日生きれば一日罪を犯す。そういう者に、阿弥陀仏という仏様が中心になってはたらきかけられてくださいます。)
※日域は、日本という意味ですが、砕いて言えば、我々は清らかな生活ができませんから、増えたか減ったか、勝った負けたか、損したか得したか、を中心にして生きています。その生活の場が「大乗相応の地」であるといいます。
※諦かに聴けは、学べ、知れではありません。「聴け」です。何を聴くのか。「我が教令」の「我が」は聖徳太子という解釈もありますが、やはり阿弥陀如来と聞くとスッキリするような気がします。あなたが目指すべき道は浄土であるという夢告ではなかったのでしょうか。
※「善く信ぜよ善く信ぜよ真菩薩よ」親鸞聖人に仏様が、あなたは菩薩だと呼びかけておられるのです。
※菩薩というのは、本当のことを求める者、菩提(覚り)を求める者のこと。サンスクリットではボーディサットバです。「信ぜよ」は修行しなさい、お勉強しなさい、ではないのです。まかせろということです。
『親鸞聖人は何を求められたのか』真城義麿著より

この度の講題で改めて深く学びたいという欲求があります。少しずつ学んでご紹介していこうと思います。皆さまも、あることの中には必ず意味があると思います。夢のことだからと思わないでください。南無阿弥陀仏

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