夜分に失礼します。
また昨夜は寝落ちしてしまいました。
昨日は町田市の高源寺さまの常例布教へ出向させていただきました。
平日にもかかわらずお聴聞に来てくださり頭が下がる思いでした。
この度は、「正信偈」の「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩鄣眼雖不見 大悲無倦常照我 」(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ がやくざいひせっしゅうちゅう ぼんのうしょうげんすいふけん だいひむけんじょうしょうが)のお心についてお取次ぎしました。
鎌倉時代の感じは本当に難しいですね。変換してもなかなか出てきませんからね。
「意訳」には、
罪の人々、み名をよべ 、われもひかりのうちにあり、まどいの眼には見えねども、ほとけはつねに照らします。
とあります。
私たちは悲しいけれども、自分の生き方が間違っているなどとは思ってはいません。むしろ私は正しい。間違っているのは世の中だとか、他人だとか思っています。だからいつまで経っても争いが尽きません。
現在でもイスラエルとパレスチナ(ハマス)が争い、それがためにかロシアとウクライナの争いが話題がされなくなる状況があります。
人は皆 裁判官
他人は有罪 自分は無罪
何とも浅はかではないでしょうか。
人を傷つけても素直に謝れない。
どこかに本当に自分は悪いとは思ってはいないからなのでしょうね。
お寺さんでも素直に頭が下げられず、言葉も「言いすぎました」としか言えない。
言い過ぎなかったらええんですか?
違いますよね。大人とは自分に非があると認めるならば、場合によっては土下座?(私は好きではないが)、「ごめんなさい」ではないかと思っていますし、自分自身はそうしてきました。
人間である以上、間違えることは日常茶飯事だと思う。問題は人を責め立てたことに自分の非を自身が認めた時の言動ではないだろうか。
どこか、悪いとは思ってないけどバツが悪いから一応謝っておこうか、が見え隠れしてしまうことではないだろうか。
最近では謝罪もLINEでする世の中らしい。
なんということだろうか。
私が学生時代に先輩方から教えていただいたのは、過ちは誰にでもあるさ。本気で謝ってきたら有無も言わさずに受け入れて酒でも飲み交わしてチャラにしていく度量が男には必要だぞ!と私は教わりました。
だから、出来るだけそういう対応をしてきました。
しかし現実はそうならない。
なぜなら責め立ててきた人が真摯に謝罪が出来ないからであります。
私も悲しいかな「凡夫」(ぼんぶ)でありますから。
凡夫とは、「死ぬまで煩悩から離れられないもの」と言われます。
つまり、妬み、腹立ち、嫉み、愚痴にいつも支配されているのです。
そんな煩悩だらけの泥凡夫たる私は、形だけの謝罪をうのみにするほど聖者ではありません。
南無阿弥陀仏と言えば済む問題ではありません。
お念仏を申すとは、阿弥陀さまの仰せに従いますのはずだ。けれども言動がそれに伴わない南無阿弥陀仏は虚しいだけであります。
南無阿弥陀仏は自身の言動についての免罪符ではないのです。
それをわかるために私たちは真実なる阿弥陀さまのお慈悲を聞かせていただき、相手の非を責め立てるのではなく我がことのように思って行動していくことではないかと私は受け止めています。
阿弥陀さまがいつもご一緒くださいます。
だからこそ、超法寺に集う方々は「同志」ではないかと思っています。断罪していくのではなく、足らないところを責めるのではなく、一緒に前に進めていくようにしていくことでお寺への一歩を共にしていくのだと私は考えています。決して皆さまがご納得いただけるような住職には程遠い未熟な私です。
私を育ててくださるのは、私を超法寺を大切に思ってくださる方々のお力でしかないのです。
こう見えて(どう見えているかな)結構弱々しい人なのです。
そんな私を超法寺にご縁を結んでくださる皆さまがここまで育ててくださったのです。
皆さま無しでは私はここまで来れなかった。
そんな思いを常に持ちながら、これからもいるま布教所をお寺にするために頑張って行きたいです。どうか見捨てずにお助けくだされば嬉しいです。
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