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親友〜『因果経』〜

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんばんは。

オミクロン感染が急拡大していますね。

今出ている数は二週間前に感染したデータですから、私たちがクリスマスからの年末年始にどのような行動を取っていたかの結果であります。他人事とせずに、それぞれの生活行動を振り返ってみる機会が必要ではないだろうか。


「他人のふりみて、我がふりなおせ」


まだ間に合いますよ。


さて、同級生、親友が往生して私の生き方もかなり変わってきました。

先日、結婚を機に本願寺派から木辺派へ転派した同級生に電話してみたらやはり知らなかった。かなり驚いていましたけど、やはりお互いに50代。他人事ではないことの再認識をしたことです。

しかしながら、ずっと連絡を取ることが無かったのが、こういう形で再び繋げてくれたのは他ならぬ彼だったことは間違いない。


さて、『因果経』の中に、

友は三つの要があると説いています。


①過失があればいましめ

②好事があればよろこび

③苦難にあえばこれを救護する


このように説かれています。


親友というのは、かばいあい、かくしあい、悪事をたくらみあうものではありません。


親鸞聖人のいう「同朋」も『因果経』に似て、共にご本願をいただくいきいきした親友のようなものでありましょう。

阿弥陀如来のご本願を仰ぎながら、日々にお念仏〈南無阿弥陀仏〉を称えながら生きていると本当に不思議なくらいに色々なことを知らされます。

信心深くなくても大丈夫ですよ。

私の側のことではなく阿弥陀如来の一人はたらきによってこそ、そうなるものだからです。


お念仏を称えない生き方など浄土真宗にはございません。

もちろん、黙ってお念仏は他力本願にはございません。

感謝のお念仏は、声に出してこそ意味があるからです。

黙ってお念仏する人はまだ他力念仏にはなっていません。自力念仏(本来はあり得ないが)であります。

阿弥陀如来を疑っている証拠であります。


改めて、蓮如上人の

「道徳よ、いくつになるぞ。念仏申さるべし」のお言葉を思い出してみたいものです。


南無阿弥陀仏、なんまんだぶつ、ナンマンダブツ。

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