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良寛さんの嘆き

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

良寛さんのお墓に刻まれている「僧伽」(さんぎゃ)という漢詩の訳文の一部です。


世はまさしく【末法】

良寛さんも出家の僧の堕落を嘆き悲しまれています。


《世俗の人に仏道の心がないのはゆるすことができる。出家した僧に仏道の心がないのは、その汚れた心はどうにもならない。髪を剃ったのはこの世の執着を断つためであり、僧衣(ころも)を着ているのは世俗のしがらみを振り払うためである。

父母妻子(ふぼさいし)の恩愛をすてて仏門に入ったのは、決していいかげんな行為ではないはずだ。

世間をゆくと、男も女もみな仕事をもって働いている。女が布を縫ってくれなければ、何を着たらよいのか。男が耕してくれなければ、何を食べたらよいのか。今、僧たちは仏弟子と称しているが、僧としての行い(衆生済度の行動)もなく、悟りを求めることもない。ただ檀家から受ける布施を無駄遣いし、僧として行うべき身、口、意のすべての行為を顧みる(かえりみる)こともない。

寄り集まると大口をたたき、旧態依然のまま日を過ごしている。寺の外に出ると、悟りきった顔つきで農家の婆さん達をだましている。

そして『私こそ修行を積んだ力量のある僧である」と高言する。

ああ、いつになったら眼が覚めるのだろう》



※皆さまはどう思いますか?

浄土真宗は在家仏教だから関係ないとか、凡夫だからしかたないとか逃げ口上に徹していませんか?

在家のために仕上げられた[南無阿弥陀仏]を心の灯にもせず、【愚痴】三昧の堕落した生活は他力本願を仰ぐとは言わないのであります。

良寛さんの嘆き悲しみを我が墓に刻むなど、私たち僧はどう捉えるべきなのか考えさせられました。


浄土真宗の生活信条

 み仏の誓いを信じ、尊いみ名を称えつつ、

 強く明るく生き抜きます。


 み仏の光を仰ぎ、常に我が身をかえりみて、

 感謝のうちに励みます。


 み仏の教えにしたがい、正しい道を聞きわけて、

 まことのみのりをひろめます。


 み仏の恵みをよろこび、互いに敬い助け合い、

 社会のために尽くします。



※最近あまり唱和する機会がなくなり、忘れています。情けないことです。

人間は忘却の生き物とは本当のことですね。

お恥ずかしいです、南無阿弥陀仏

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