皆さま、こんばんは。
今日は良い天気に恵まれました。
風もありましたので比較的過ごしやすかったと思います。
さて今日は小平霊園の墓前でな法事でした。
以前は毎週のようにお参りしましたが久しぶりでしたね。
いつものように熱の入ったお取次ぎをしました。特に若い世代がたくさんだと私はいつも必ずと言ってお尋ねしています。
「亡き人は今どこにいらっしゃる?」
「皆さまはどこを目ざして生きていますか?」
と。
すると若い子たちは無表情、目をまん丸くして一人だけ首を横に振りました。良かった。
無表情でノーリアクションが一番辛いのです。
人間はコミュニケーションを取りながら生きるものだから、一方通行って寂しいもの。
「興味ない?」
というと「はい」、そんな態度でした。
悲しかったのはその子たちの親御さんも無表情、無反応だったことですね。やはり親子は連動するものです。
「興味がなくても人間は必ず歳を取り、病にもなり、そして必ず死んでいくんだよ。それは今日かも知れないし明日かも来年かも知れないよ。そう思っていないよね。」
「この世は無常、全てのものは移り変わる。立ち止まることはできないし過去に戻りたくても戻れやしないんだよ。」
今はお父さんお母さんがいるから安心しているかも知れないけど、いずれ居なくなるか、私が先に人生を終えていかねばならないよ。
道に迷ってしまったなら教えてくれる人はたくさんいるだろうけど、人生に迷ってしまったらだれが教えてくれるかな。
ましてや行き場所を本当に知らなくて安心して生きていけるのかな。安心して死んで行けるのかな。どこへ行くんだろう。
それを今日、おばあちゃんが教えてくれているんだよ。おばあちゃんがそれを皆さまに聞いておいてほしい、わかってほしいと声なき声で呼びかけているのに興味が無いって悲しくない?皆さまもそうだし、命をかけて私たちのこれからについて指し示してくれているのに関係ないって学ぼうとしないなら不安な人生になると思うけどなぁ。私も若い時[10代、20代]は、そんなの関係ない、ジジイになる前に死んでやるみたいなかっこいいセリフに酔っていたよ。
でもジジイになったら情けないけど生きていたい、今生きているのが幸せだ、嬉しいなんて思っていたりするんだね。
人間ってワガママだよね。
でも、どんなに自分の殻に閉じこもって好き放題に生きてみても、老いていく苦しみ、病んでいく苦しみ、命終わっていかねばならない苦しみは必ずやってくるし、逃れることはできません。
しかしその時に大切な人が命をかけて教えてくれた仏法の世界をよりどころにできていたら、きっと今とは違った生き方になるんじゃないかと私はそう思います。
私がおじいちゃん、おばあちゃんから教えていただいたこと、「わしらは、お念仏申してな、阿弥陀さまが建立してくれたお浄土に行かせてもらうんじゃ。二度と輪廻転生しないさとりの仏さまになるんだよ。」
これをずっとずっと言い続けてくれました。
誇り、誉れであります。
おじいちゃん、おばあちゃん有り難う。
ナンマンダブツ、ナンマンダブツ。
これを知るために私たちは生まれてきたんだよ。それなのに関係ないって背を向けて生きたら勿体ないじゃないかな。違う?
誰だっていつまでも元気でいたいし、長生きだってしたい。でも必ず終わりが来る。人生という旅は終わるのだから終わってもハッピーでいてくれ、それが故人の願いじゃかいかと思います。
懐かしい人、それは身内だけじゃないよ。私に仏縁をくださり仏さまを通じて遇うことができたあの人、この人、全て仏さまのおはたらきであったのです。私を仏道に導いてくださったのです。私はあの人のご生前の優しい言葉、優しい笑顔を決して忘れません。また必ずお遇いしたいと思います。
そんなお取次ぎをさせていただきました。
浄土真宗のみ教えはそういう教えなのです。
ご生前の姿を思い返しながら願いを素直に受け入れる私になって、感謝のお念仏、南無阿弥陀仏を愚痴のこの口にいただくことこそが亡き人に対してのご供養となると私は思いますよ。
今夜は久しぶりにライオンズが勝てました。
連敗が止まりましたね。始球式の女神のおかげでしょうかね。隅田が完封し打線も五点も取りました。やればできるよ、やらなきゃダメさ。やっぱりライオンズが勝つと安堵しますな。
今日も一日、お出逢いさせていただけた全ての方々に御礼と感謝いたします。
南無阿弥陀仏
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