皆さま、こんばんは。
浄土真宗の最大の法要、親鸞聖人のご命日を偲び勤められている報恩講が始まっています。親鸞聖人は1263年11月28日に往生されました。そのため毎年この時期に勤められ16日お満座となります。親鸞聖人は亡くなられる一週間前からとこに伏せるようになったと言われているため一週間を報恩講とされているそうです。
また報恩講は親鸞聖人33回忌から始まったのだそうで、今では他宗も同じように宗祖、開山の法要として報恩講のような形で勤めているようになったとも言われます。
「報」とは、つながりのこと
「恩」とは、感謝のこと
「講」とは、気がつくこと、語らうこと
報恩講は、親鸞聖人から私たち(浄土真宗の僧侶、門信徒)がいただいた恩に対して報いるための集まり。
親鸞聖人がお示しくださったこととは何でしょうか。
『歎異抄』には、「命あるものはみな、これまで何度も生まれ変わり死に変わりしてきた中で、父母であり兄妹・姉妹であったのです。この世の命を終え、浄土に往生してただちに仏となり、どの人もみな救わなければならないのです」と記されています。
確かに、お父さん、お母さんこそが、直接的に私にいのちをくださった方かもしれませんが、いのちの連続の中で考えるなら、すべての命はつながっているのです。
私たちは、自然の恵みのもとで多くの命とつながり合い、育まれています。
そして、多くの方々の支えと仏さまのご縁に、生かされて生きているのです。
このように、多くの命のつながりと、私の命の落ち着き先である浄土への道を示し、今の私を支えてくださる「畢竟依(ひっきょうえ)」=(究極のよりどころ)を示してくださったのが親鸞聖人でした。
ですから、私たちは、阿弥陀如来のおこころを聞かせていただくとともに、親鸞聖人のお導きへの感謝の思いからこの報恩講を大切に勤めてきたのです。
皆さまもご両親あっての人生でもちろん最大限に恩に報いる生活を送っておられることでしょう。それに伴って見送られた方は、ご法事を大切にしていることだと思いますが、近年、関東、首都圏では葬儀、法事、仏事の縮小化、並びにやらない風潮になっています。さまざまな事情もあるのでしょうが、私が親の仏事をしないということは、自分の子どももやはり私の葬儀、法事、仏事はやってはくれないことも覚悟しておく必要がありますよ。この世は因果応報ですから。
子どもは親の背中を見て育つっていうじゃないですか。
私の人生は常にお父さん、お母さんが手本となって学んできたものばかりですから。
浄土真宗の教えに遇わせていただけたのは、もちろんご両親のおかげであり、ご先祖の信仰心によって繋がれてきたことを忘れてはなりません。
親鸞聖人がおられた時分に親鸞聖人の教えに遇い、苦悩の人生から本当の幸せの道を知って喜んで生きられたことも忘れてはなりません。
阿弥陀如来のお誓いは、
口に南無阿弥陀仏を称えさせ、こころを如来に帰依させて、浄土に迎えようとお考えくだされたものです。
だから、こちらに善行をつんでこいとか、このような悪行三昧の私では到底、往生などできないだろうと苦悩する私が心配する必要がないのが「自然(じねん)」というのです。
一切の生きとし生けるものを無上の仏にならせよう、とお誓いくださっているのです。無上の仏とはお姿がおありでありません。お姿がおありでないから自然というのです。お姿がおありにときには、無上のさとりとは言いません。
お姿もおありでない様を知らせようとして、殊更に阿弥陀如来と申しあげるのだとお聞かせいただいております。
阿弥陀如来というのは、自然のありようを知らせるためであります。
この道理が納得できたら、この自然のことは常に詮索すべきではありません。
いつも自然を詮索すれば、義のないのが本意であると教えられるのに、なお思慮分別を加えることになります。これは如来の智慧が人智を超えたものであるからであります。
このように親鸞聖人は『御消息』で語っておられます。
浄土真宗ではよく「自然法爾」(じねんほうに)と言われます。
自然の前では自力は無効
「おのずとそうなる」
人為的なものがない状態を言います。
あるいはいかなる人為をもってしても所詮無駄で落ち着くところに落ち着くという意味を持っています。
本願の働きを自然と言う。
これを「しぜん」と読むようになったために阿弥陀如来のはたらきがわからなくなったと言われます。同じ字でも意味が違うのです。
これは頭で理解しようとしてもきっとわからなでしょう。
阿弥陀如来の本願の法は、こざかしい自力の思いを投げ出して法にすべてをまかせたら、法の持つ自然の
はたらきで必ずさとりに到達できるのです。
それを親鸞聖人は、自然(じねん)と言い、また法爾(ほうに)と表現されたのです。
難しいでしょうね。でも私が頑張らずに身をまかせられるようになれたら自ずとそうなっていくので安心ですよ。だって阿弥陀如来がそうするとおっしゃっておられるのですから。この道理を疑っているうちはわからないでしょう。
ですから浄土真宗は「聞く宗教」と言うのです。
聞いてごらん、称えてごらん、まかせてごらん、ほら安心でっせ。
ナンマンダブツ
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