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執筆者の写真超法寺の住職

自己への執われが邪魔する

皆さま、こんばんは。暦の上では暑さが収まるのですが残暑が厳しいようです。

ただまた新たな台風が近づいてきていますので確実に秋はもうすぐだと思いますよ。

熱中症に気をつけてお過ごしください。


さて、今年の夏も水の事故で幼い命が失われております。ちょっとした油断が悲劇を生んでしまいます。親御さんやご家族の悲しみに苦しみにお悔やみを申し上げると共に哀悼の意を表します。


私も今でも忘れられない夏の出来事がありました。小学生の頃だと思うけど、母方の親戚は夏休みに千葉県の九十九里(白子)の宿で過ごしていました。我が家はお寺なので両親は忙しいため私だけ(妹はいなかった気がする)行った時のことです。

始めは川の河口辺りにいたのですが、ふと周りを見ると伯父さんも従兄弟たちも姿が見えなくなっていました。海岸の方へ探しに行ったが見つけられない。挙げ句の果てに宿の部屋に戻ると伯母さんたちが布団をかたしていて、「まだ、帰って居ないわよ」と言われた。

仕方ないのでまた浜辺へ戻ると、怒りに満ちた顔をしたいつもは陽気な伯父さんが。

「バチコーン!」と、ぶっ飛ばされました。

父親以外であれほど殴られたのはあの時だけだったと記憶しています。

「馬鹿野郎!どこにいたんだ!」と言われたかな。

後で聞いたら伯父さんは私が波に攫われてしまったのかと探し回っていたらしいね。


子どもって、ほんのちょっと目を離しただけでいなくなるものだから親って大変だと思う。

ましてや他人の子どもを預かるというのは身内でも大変なリスクがあるということです。

今は携帯とかありますから僕の頃とは違うんでしょうが。懐かしいね。まだあの時を思い出すとほっぺが痛く感じるもの。

伯父さん、本当に心配していたんだね。

ごめんなさい。その伯父さんは今は近くの新座市に居て88歳になられた。伯母さんもまだ健在。56年もお世話になっています。

きっと亡き父母並みに親のような存在だと思う。


【われ求めざるに 如来われを求めたまい われ尋ねざるに 大悲われを尋ねたまう】

            [利井興隆師]


『百八つのことば』に、

恥ずかしや親に抱かれて 親さがし

くたびれはてて 親のふところ


確かに子どもは親の子どもに対する切なる願いをなかなか聞こうとしませんね。

阿弥陀さまの量りしれない命の願いを聞こうとしないのです。

阿弥陀さまの大悲に包まれていながら、その大悲のお心を尋ねようともしないで、ただ自分の力のみが頼りだと思って人生を歩もうとしています。

しかし、阿弥陀さまは何もかもご承知の上で、まるで我がことのように私を尋ね、私をしっかりと抱き取って、真実の世界でありますお浄土へと救い取ってくださるのです。


〈自己への執われ〉

苦境に陥ったときによく使われる言葉で「わらをもつかむ」というものがあります。

川でおぼれそうになったとき、慌てふためいて何の手助けにならないわらにさえしがみついて必死に助かろうとします。

まわりも自分も目に入らず、ただ「大変だ」という動転した気持ちだけが頭を占領し、しがみつこうとすればするほど事態は悪化するばかり。

深みにハマって、どんどん溺れていきます。


ところが、私を知り、私のまわりの状況を冷静に見ることができたらどうでしょう。

何もそんなに力まないでもよいことがわかります。

人間は、水の中では自然と浮くようになっているのですから。

自分の力を抜き、川の水にそのまま身を任せていると、口や鼻から呼吸することができます。


人生の苦悩も同じようなことが言えるのではないでしょうか。

恵まれてあるこの我が身と、その我が身に向けられた量りなき命の願いにそのまま任せきることができたとき、「おれがおれが」の自力のはからいがかえって妨げになっていたことがわかってきますよね。


利井興隆師は、先の法語に続けてこう言われています。

【われ求むるに非ず、如来無明の海上に名乗り出でて、われを呼喚したもうなり】


暗黒より光はいでざれば、我が力もて信ずるに非ず、仏光われを照らし、仏智われを信ぜしめて、救いたもうなり。

されば信心とは、我が求めて安心するに非ず、われを求めわれを抱きて、すて給はざる仏の誓いに安心するをいうなり。

       「利井興弘著『真宗法語』」


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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