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執筆者の写真超法寺の住職

真実の信心って「まかせる」

更新日:2022年11月13日

いよいよ報恩講が始まりましたね。

皆さま、今年は外出抑制措置が出ていませんのでお聴聞するチャンスですよ。

人間に生まれたからこそ、浄土真宗のみ教えに遇えたからこそ「お聴聞」するチャンス、お念仏をいただくチャンスに恵まれました。

是非とも足を運んでみてください。

首都圏の方は築地本願寺までどうぞ。


さて、浄土真宗の方々でも結構受け取り間違いしやすいお念仏のいただき方について『和讃』からお取り次ぎしたいと思います。


【弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり】


【誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ】


このニ首は、「冠頭讃」といって文明版『三帖和讃』の初めに置かれています。

なぜこのニ首が初めに置かれているかといえば、[信心を勧め、疑いを戒める]という浄土真宗のご法義の要であるからです。


つまり、阿弥陀さまの名号〈南無阿弥陀仏〉を称える人について、阿弥陀さまのご本願を【疑いなく】受け入れて称える信心の人と、ご本願を「疑って」自力のハカライを交えて称える自力の疑心の人とがあります。


【信心の人】は、ご本願を思い出し、お救いを喜び仏恩を報謝するおもいでお念仏(南無阿弥陀仏)を称えますから、《真実の報土》へ生まれていきます。

[ご本願を疑っている人]は、お念仏を称えながらも、阿弥陀さまから賜ったお念仏(南無阿弥陀仏)であることに気づかず、多く称えた功徳によってお救いにあづかると勘違いし、お浄土に迎え取られても、〈方便の化土〉といわれる浄土にしか生まれられません。


その化土(けど)は、七宝(さまざまな宝石)の宮殿(くでん)に五百年も閉じ込められて、三宝(仏•法•僧)を見聞できないのです。

※このように阿弥陀さまの誓願を疑う過失が重いこてを述べられ、戒められますが五百年とは自力のハカライの誤ちに(あやまち)気づくまでには長いお育てが必要なことを述べられています。



阿弥陀さまをこちらに持ってくると[疑い]が芽生えてしまいます。

よく聞かせていただきましょう。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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