仏教の教え、なかなかご理解いただける方が少ない。どうも皆さん、神仏にお願いすることだと思っていたり、亡き人のために念を込めているのが仏教だと考えていたりします。
その上、亡き人は仏さまになられたというのに、ではどこへ行ったのかと聞けば「天国」などと言われます。つまり頭で勝手にりかいしておられます。
だから「他力本願」と聞いても正直理解されていませんよね。
私も常々、あらゆる例え話で少しでも皆さまにご理解いただけるように鋭意努めているのですが、皆さまの凝り固まった偏見をときほぐすことができません。未熟でごめんなさい。
この度は改めて、例え話で「自力と他力」の違いをご紹介します。
自力の仏教は、[修行(出家)を積み重ねて「欲」から脱却して自らの力で悟り「正覚」を開こうとするものです。最近では「お遍度まいり」が流行っていますが、これは悟りの行ではありません。本当に厳しい道で、座禅が代表的です。
他力の仏教は、自らの無力を自覚し、自力修行を捨てて阿弥陀如来の[ご本願]のおはたらきに全ておまかせして、阿弥陀如来の大慈悲心に救われて浄土へ生まれ、二度と輪廻転生しない悟りの仏(仏陀)にならせていただきます。
ですから[疑う]ものは救われないと言われます。阿弥陀如来の[ご本願]が言葉になったものが【南無阿弥陀仏】の声となり私たちに届けられ、私たちはそれを素直に受け止めます。
そうすると、受け取った証として我が口に【南無阿弥陀仏】と声となります。
疑っている人はなかなかお念仏は声となりません。
ところで自力と言えば、全くの自分の力だけと思っている人がおられますが、実は違うのです。自分の力だけであれば、宗教にはなりません。自力も他力も、その背後には【仏力】があります。
仏の力が加わった上での自力であり、他力であるのです。
↓↓↓
私は自力の仏教は、[猿の親子]に例えます。
猿の親子を動物園やテレビで観たことありますよね。思い出してください。小猿はいつも母猿の背中につかまっています。この抱きつくということが自力なのです。
手を離したらダメですよね。母猿が仏さま、小猿が人間たる私です。
他力の仏教は、[猫の親子]です。
最近ではあまり街や近所で見かけることはなくなったでしょうが、母猫は子猫を運ぶときには、子猫の首の後ろを咥えていますよね。子猫は暴れることなくじっと母猫に身をゆだねます。だから母猿に対する絶対的なおまかせの世界ですよね。疑っていたら暴れたりするはずだから。お母さんへの絶対的な信頼があればこその世界です。これと同じように、なかなか南無阿弥陀仏とお念仏が申されない人は、まだ自力で助かると思い込んで他力を疑っているのです。だから届けられている阿弥陀如来のお救いが受け止められないのです。
そして、そのおいわれが仏教の話(法話)に語られているのに我がこととして聞けない、聞けないからわからない、わからないから眠くなります。つまんない、面白い話にしか耳を傾けようとはしない。これが現実では無いでしょうか。わからないまま、聞いていくのです。
それは私たちがお父さん、お母さんを知ったときのように、わからないまま知らされていくのです。わからなくてもお父さん、お母さんが私に名をつけて呼び通しに呼んでくれたのです。
[私がお前の親だぞ。安心してくれよ]と。
何にもわからないまま親を知りました。
私は父と母とは55年もの間、お付き合いさせていただきました。決して親孝行な子どもではなかったでしょう。
でも子として親を見送れたことがある意味の親孝行なのかも知れませんね。
皆さまはらどう思われますか。
まだおられる方は精一杯甘えておきなさいね。
我がの付く親でしか甘えられませんから。
義理ではそうは許してはくださいませんよ。
我が親なればこそであります。
私は甘え下手でした。
でも妹には「お兄ちゃんはずるい。一番長く一緒にいたから。」
それは長男なんだから当たり前ですよね。
それでも妹は妹なりにそう感じていたのです。
それだけでも私は幸せ者だったのですね。
他力の道を私たちに残してまた遇える世界を教えてくれた我が親でありました。寂しいけど嬉しいな。だってまた遇えるんだから。
サヨナラしたんじゃないんだからね。
南無阿弥陀仏をお称えすれば、ナンマンダブツの声となって私にいつも寄り添っていてくれるんだもの。
それを知り、南無阿弥陀仏を称えながら生きていくのが浄土真宗の道なのです。
皆さまが南無阿弥陀仏を口に称えながら生きる人になることが亡き人か一番安心し、喜んでくださることなのです。どうかご生前を偲びつつ、お念仏を申す人になりましょう。
そう願っていますよ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・
※今日はライオンズのマスコット、ライナちゃんの誕生日だけど勝利で祝えなかったね。やはり東浜は打てないなぁ。
Comments