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執筆者の写真超法寺の住職

自分を頼りにしちゃう凡夫

日頃からあらゆる場で浄土真宗のおみのりについてのディスカッションを重ねているのですが、どうしても人間って、最後は自分でしかものが語れないのでありますね。


だから、どうしても話が噛み合わない。

年配の方々は、「だってお聴聞できないんだからしょうがないじゃない。」って自分の都合を優先して語る。暇がないんじゃないのにね。


買い物には行くし、習い事には欠かさず行く。

お寺だってお墓参り(納骨堂参り)は欠かさない。

お寺の勉強会には顔を出す。

それでもいざお聴聞(聞法)には気が乗らない。

いや、仮に聞いても私の都合でしか理解しようとはしないのです。


だからいつまでたってもわからない。

浄土真宗のみ教えが理解できないでいるし、それがむしろ当たり前だなんて開き直ってしまう。


だからでしょうか、『正信偈』には、【化土往生少なからず】と言われています。

親鸞聖人がおられた時分でもそうなんだから、現代ではもっと数は多いと思います。

だって圧倒的に仏法聴聞されないんだから。


聞いてもわからない人なのに、聞かないし自分のこととして聞かないんだからわかるはずない。

ましてやナンマンダブツが声に出ても、それが宝ものにはなっていないようにすら感じる。

誰かのために称えている•••そんなものではないはずなのに。


先日なんて、浄土真宗ではお水やお茶は供えないのですよ、というと、「え〜、だってご本山や築地本願寺では供えているじゃないですか!」などと言う有り様だ。


おいおい、何を言い始めるんだ、この人は。


よくよく聞くと、話の論点すら変わっている。

この方が言うのは、お水やお茶ではなくお供え物そのものでありました。

全て自分の考えが基本で、【自分は正しい、周りが間違えている】なのですね。


私は困り果てました。

一応、この発言をされた方は門徒推進員の資格をお持ちの方なのですよ。あり方が問われるように感じたのは私だけでしょうか。

研修会に回数だけ参加すれば資格が得られる制度により理解度の無い方が資格を得てしまうのはこのような弊害を生んではいないのだろうか。


やはりある程度、理解度を測った上で資格を与えるべきだと思います。人は資格を与えられるとは「合格したのだから、私は浄土真宗を理解しているし、間違えてもいない」と思うのは必然だから。

また最近では某通信教育が推進されています。その中も一定数、ちゃんと【ご法義】をご理解されていない方が僧籍を持って一線に出ているということが問題視されている。


僧籍を持っているとは浄土真宗本願寺派から【お墨付き】を貰ったと言うことです。

これは自動車運転免許証と同じです。

やはりペーパードライバーは一定数おられますよね。つまりペーパーお坊さんも一定数おられるということですね。


ペーパーお坊さんにお参りをされた方々はそれがペーパーお坊さんとはきっと知らずにいて、「あ〜、浄土真宗ってこんな宗派なんだ」と認識されてしまいますよね。だって浄土真宗は在家仏教だから修行もしていないからあの厳しい道のりは経ていないのだから。


マンション坊主が巷で問題視されていますが、むしろ私はペーパーお坊さんの存在がこれからの無宗教時代では最大の問題となる気がしています。


よく【親鸞聖人にたち帰る】という研修が行われるが、たちかえるとは何でしょうか。

私は今こそ、【仏法聴聞に勤しむこと】だと思います。ただお経を読み、お坊さんの話を聞くだけならつまらないから、賑やかしが最近は主流になりつつありますが、それが本当に親鸞聖人が歩まれた道なのでしょうか。蓮如上人が教化(きょうけ)され浄土真宗が日本一の仏教教団となったのは何だったのかをもう一度問うてみる時期に来ているように近頃、本当に【場】に出て痛感しています。


私は布教所という立場でこの危機感を肌でひしひしと感じるのです。

漫才や落語、ヨガ•••さまざまな余興を取り入れておられるようですが、それでホンマもんの仏法聴聞に誘うことに繋がっていくのだろうか、私は疑問でしかない。(決して否定しているわけではないが)

ウチの布教所はまだ経済的に貧相のために、ホンマもんのお取り次ぎをしてくださる先生を招聘できずにいます。早くそうなりたいと思う。

亡き父は、本当に積極的に超一流のホンマもんを招いていました。ホンマもんしか来ない寺が実家寺だという自負(誇り)がありました。


だから私も布教使を目指したから。

私は超一流の先生との出遇いが今の私を作ったと思うし、私の布教は、その先生方々の素晴らしい法で作られている。やはりホンマもんに出遇わなくては、どうしても[自分を頼りにする]私の我の殻は壊せないし、殻から出ることもできない。


我が身は、【いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし】であります。


【諸上善人 倶会一処】


私がお聞きしたご法義は、

【ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし】と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。※親鸞はただ、「本願を信じ念仏して、弥陀に救われなされ」と教えるよき人•法然聖人の仰せにしたがい、信ずるほかに何もないのだ。


どうしても人とは、自分で得たもの、考えを優先しがちであります。[雑行雑修]

しかしこれには真実はありません。

ここを知るためには私たちは『教行信証』に尋ねていくしかないのです。

とかく持論を展開しようとする人は、『教行信証』を離れたところで語ろうとするのだから悲しい。 


いいですか!

【お念仏の道は他力(絶対他力)の道】


私は悟りを求める心もないし仏になる修行もできない。ただ、自己中心の欲の心に動かされ、罪を重ねる悪人、凡夫(臨終まで煩悩から離れられない人)です。


お念仏の道は、その凡夫を浄土に生まれさせ仏にするという南無阿弥陀仏を我が身にいただく(信心)他力の道です。


阿弥陀如来の【仏力】によってのみ、私は必ず浄土に生まれ、仏になると定まった菩提心であります。


南無阿弥陀仏、あなたの仰せのままに私もお浄土に参らせていただきます。

あなたの仰せのままに、私も仏にならせていただきます。と、御恩報謝に自分の分(ぶん)を尽くして、この世を生きていくことを最優先にしたいものですね。


【世の中安穏なれ 仏法弘まれ】

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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