おその同行(どうぎょう)の話の続き。
三河の妙好人で知られます「おその」さん。
疑心を晴らすことにこだわりすぎると、お聴聞をしているひとたちに、阿弥陀如来の救済には条件があるように誤解されてしまいます。
私たちがやはりお取次の中で強調すると本意ではないでしょうが、条件であるかのような誤解を受けてしまう。だからなかなか伝わらないのでしょう。
昨今の「お念仏申しましょう」は、まさにその条件そのものだと思います。
私はずっとあれが嫌でした。
だって【仏恩報謝の念仏】と言われているのに、「お念仏申しましょう」じゃおかしいと思う。
浄土真宗は、お念仏を称えたら救われる教えではないはずです。
確か昔、そんなお取次をされた方に先生が
「あなたは本願寺でご法礼をいただいたらあかんよ。増上寺でもらいなされ」と、おっしゃいました。
僧俗共に、間違えてはなりません。
私(凡夫)に寄せて法を聞いてはなりません。
私の心を開いて阿弥陀如来の救済を受け入れていくのです。わからないまんま。
【嬉しいことに、阿弥陀如来さまは、この世が好きで後生のことが嫌いな者(私)を一番に好いてくださいます。それがありがたくて、毎日仏法の話をしておりますのじゃ。】おそのさんの言葉であります。
病床を見舞った同行(どうぎょう)に、領解(りょうげ)を聞かせて欲しいと頼まれて、おそのさんはこんなふうに答えておられます。
【私には領解はなんにもない。一生の間、ただ無駄骨を折っただけじゃわいのう。】
そう答えられました。まさにこちらにはなんもない。すべて阿弥陀如来の仰せのまんまに生きた生涯だったのでしょう。
おそのさんは、嘉永六(1853)年四月四日静かに往生されました。78歳でした。
つまり、今日ですね。
170年前にこのような素晴らしい念仏者がいたのです。
今、親鸞聖人御生誕850年、立教開宗800年慶讃法要がご本山、西本願寺で厳修されています。親鸞聖人が90年の境涯の中に、一体私たちに何をご教示くだされたのかを私たちが今自ら問うていく大切な場だと思います。
そのような中で、新しい[領解文]の賛否が問われるというのも今まで教団任せにしていたことにも私たちは反省を込めて未来の浄土真宗のためにも批判だけに止まらず、各々が親鸞聖人が蓮如上人が生涯をかけて守られた[ご法義]をしっかりと尋ねていかねばならないと思うのです。
おそのさんが言われた言葉は決して親鸞聖人の言葉ではないけれど、[このまま]の殻を出て[そのまま]救われる道を歩んでいく必要があるのではないかと私は考えます。
ですから、「お念仏申しましょう」は止めましょうよ。言わされる感謝には心が伴いません。
心からのありがとうが、私の愚痴心から南無阿弥陀仏が出てくるのだから。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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