老いるということ
- 超法寺の住職
- 2024年5月24日
- 読了時間: 4分
皆さま、夜分遅くに失礼します。
うちの子の吠える声に起こされました。
次男坊は17歳になりましたのでなかなかさまざまなものに気づいてあげるのが大変。
もちろんこれは人間でも同じでしょうが、ワンちゃんの場合は一生赤ちゃんのような存在ですから「察して」あげねばならないのです。
親の思いは常に我が子に向けられ、我が子に注がれます。特に愛犬に対しては「察する」という行動が求められます。
私たち人間と比べて人生を駆け足で駆け抜けていきます。だから「老い」も長くおぼつかないです。しかし次男坊には常に助けられ、支えられてきました。ペットだなんておこがましい。
そんなペットに何を言ってんのかよ、って言われるでしょうが、何不自由なしに我が子がおられる皆さまにはご理解いただけないでしょう。
それでいいのです。
わたしにとってもこういうものなのです。
私にちょうど良い存在であります。
だって阿弥陀さまは、あらゆるいのちにはたらかれる仏さまです。これは一般的に一番に私たち人間に向けてのはたらきなのでしょうが、人間であればこそ、なかなか真実に目覚めることが難しいもの。
それを愛おしい存在を通して【諸行無常】を知らされ、仏道に誘うはたらきでもあるのです。
さまざまな諸仏のはたらきだと私は思う。
私に南無阿弥陀仏を受け取らせるために阿弥陀さまはあらゆる手立てをもってご苦労されます。
親鸞聖人は、ご和讃に
南無阿弥陀仏となふれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して
よろこびまもりたまふなり
と、述べられておられます。
思い通りにならない娑婆世界を私たちは何とか思い通りにしたいと悩み苦しんでいるお互いです。そんな私を阿弥陀さまはお見抜きくださり、南無阿弥陀仏の【法】をもって真実のやすらぎ【安穏】を知らしめようとされておられるのです。
口にはお念仏が申されても、私の身の煩悩は何も変わりません。他者を責め、好きな人にだけしか優しくなれない偽りの聖者、これが私の本性であります。口には親鸞聖人のような優しい温かな言葉を使っても本質はどこどこまで言っても泥泥凡夫なのです。
※【凡夫】とは、死ぬまで煩悩[我欲]から離れられないものを言い、諸仏からも見捨てられた悟りから最も遠い迷いの存在であります。
つまり、自我に執われ生きていくことしかできない【凡夫】たる私がどうして死んだだけで往生などできるのでしょう。できるはずなでありません。無い存在の私が地獄[自業苦]ではなく往生させていただけるのは、阿弥陀如来の【ご本願】あらゆる命を救いたいという願いの上に建てられました大慈悲心があればこそなのです。それが南無阿弥陀仏の六字に込められて私の上にはたらいているのです。
我が親のように先手のはたらきであります。
我が親が人生をかけて、なかなか素直になれないワガママな私のために時に厳しく、時に優しく接しながら私にちょうどいい形ではたらいていてくださるのです。私にちょうど良いもの。
我が子は私の場合は血を分けた人間ではありませんでした。姿は犬ではありますが生まれて17年、ずっと側に居てくれます。いかなる時も側にいて私を支えていてくれています。
言葉はなくても[察する]こと。
面白いもので今や何となくわかるんですよね。
だっていつも見ているもの。
阿弥陀さまだとは言わないけど。
真似事をさせていただいています。
昨日は埼玉県の浄土真宗本願寺派寺院の集まり[組(そ)会]へ参加してきました。
総会です。私は受付を担当しました。
その代表たる組(そ)長に、25日の安穏法話会[宗祖降誕会]に出向いただきます。
超法寺新拠点に移り初めての法座に相応しい方だと思います。是非皆さま、仏さまのお話しを聞いて見ませんか。心のモヤモヤが晴れるはずです。お待ち申しあげます。
明日は朝からテレビアンテナ設置、エアコン取り付け、リフォーム担当が確認に来られたり、また夕方になるでしょうが荷物運びもあり、あ、整骨院にも行かなきゃです。
なかなかハードになりますが、新超法寺に向けてワクワクしてもいます。
おやすみなさいませ
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