悲しみはそれぞれ違うよ

更新日:10月17日

皆さま、こんばんは。

いかがお過ごしでしょうか。

ニュースで事故や犯罪により亡くなられたり

心が締めつけられるようになります。

どうぞお大事に気をつけたいですね。


さて、昨日は父の納棺でした。

あれほどあれこれ生前父について語っていましたが、やはり悲しみ深くなっています。

あまりに思い出が多すぎて受け止められずにいる。


気心知れた方に悲しみ深い話をしましたら「親が死んで悲しいのは当たり前でしょう。」

「長生きされて苦しみから解放されたのだから良かったじゃないですか。」と、言われてしまいました。

かなりのショックを受けました。

そ、そんなこと言わなくてもいいじゃないですか。

両親を見送って子どもたち、孫たちがそれぞれ悲しみの中、お念仏を「灯」にして歯を食いしばって毎日頑張っているのに、このような言葉を長くお付き合いしている方からぶつけられて、憤慨するほど感情的になってしまいました。


怒鳴りはしませんでしたが、涙が出てその場で泣き崩れてしまいました。

他人事だからでしょうか、人の悲しみなどわかるはずないし、「あなたも80過ぎまで生きたらわかるよ」と、再び言葉を浴びせられました。

「55の若さでは決してわからない」とまで。


一体どのような思いでこのような言葉を私に投げかけられたのでしょうか。

今までもキツい言葉はありましたが、これほど悲しみに塩を塗り込められた言葉は初めてでした。

きっと私が気づけない何かがあるのでしょうね。


暴力は、この手をかけて人を傷つけても、言葉で人を傷つけても、また心に思っただけでも【罪】は同じなのだと聞きました。


人間の浅ましい姿は、これほどまでに他者を傷つけて、また巡り巡って自分をも苦しめていくのです。

言わねばいいものを、思ったことを、自分の偏見、自分勝手な解釈でそれを言葉にしたがために、それまでの良好な関係すら、一瞬で粉々に打ち砕いてしまいます。


その上、都合の良いところだけを切り取って、「お念仏を称えて生きているのだから、いつまでも悲しみに落ち込んでいたらダメじゃないですか。」

「私は早く立ち直ってほしいから、身内のような思いで言ったのに、そんな反応をされるとは思わなかった」

「私が悪いのですね。そうだったらきっと私が悪いのですね。謝りますね」


これって謝っているのでしょうか。


親しき仲にも礼儀あり。

そう言いますよね。

家族、身内でもない人に、つい心を許してみたら結局こんなバイオレンスなことになってしまうのです。


私は煩悩にがんじがらめになって生きていますから、いつも喜怒哀楽に振り回されています。


我が人生55年、ずっと父を見てきました。

私も80の人からみれば若造なのでしょうが、いつ死んでも不思議ないくらい老いています。

父の苦しみは30年後の自分だなぁ〜って感じています。でも感じ方は人それぞれ違うのでしょうね。

だから、そんなことを突き合わせてみても意味はありません。戦争になるだけ。お互い険悪になるだけ。今までの関係性すら一瞬で無くしてしまうほどに。


【愛】の裏返しは【憎しみ】であります。


それを、そのまんま、阿弥陀さまがひとりばたらきで私を抱いていてくださいます。

だから、阿弥陀さまが堪えてくだされたからこそ、私は手をあげたり、激昂したら、相手を傷つけることなく、自らがさっさとその場を離れることで落ち着けたのですね。

ありがたいことですね。


親のことは家族や親戚縁者で悲しみを共有できればそれでいいのですね。


【その人を失った悲しみの深さは、実は生前そのまま、生前その人から、我が身が受けていた贈り物の大きさだったのです】


煩悩具足の凡夫が語る言葉に気持ちを害されることは、私が執着心を捨てられないからなのですね。

まさに、私が父から55年以上もたくさん山ほどいただいてきた贈り物(生み育てて見守り続けてくれた)が、この深い悲しみの根源なのでしょうね。


それを凡夫の言葉で否定されたから気分を害されただけでありました。それだけのことなのですね。


もっと冷静にならなきゃいけませんよね。

最愛の親の往生に心穏やかになれない、実に煩悩具足の凡夫です。

こんな私だから阿弥陀さまは決して目を離せないのでしょうね。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


愚痴っぽい文章になり申し訳ありません。


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