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築地本願寺常例布教出向

皆さま、こんばんは。今日も暖かな一日でしたね。20度ありました。

異常気象ですね。花粉症のような症状が出たら寒暖差が原因だと思います。

住職はブタクサアレルギーです。

生きるって大変です。

今日も恐ろしい遺棄事件が報道されて十八歳の女の子が白骨化された状態で見つかったそうです。今年の六月ごろから所在不明だったそうです。

ご家族の悲痛な思いが今日もまた起こってしまったのですね。

いつになったら、このような凶悪犯罪がなくなっていくのでしょうか。

私たちはずっと前からずっと前から、気の遠くなる時からそう思って生きてきました。しかし、「自我」を最優先に生きているために、どうしても自分の思い通りに生きようとしてしまいます。

相手が一生懸命に生きようと頑張っていても、結局自分の思い通りにならないと不満を持ってしまいます。違いますか?


殴った方に罪の意識がなくても、殴られた方はとても痛みを感じ、苦しみと悲しみと、場合によっては憎しみすら抱えてしまうのです。

これが令和の今になっても起こっている「イジメ」というものの姿です。

正論を振りかざしても相手によっては通じないことが多いのです。

なかなか正直、人間には難しいことでしょう。

だって私もそうですが、結局自分が一番かわいいですから。

相手の痛みなどわかるはずはないのです。いつも自分優先の生き方。

それが結果、事故や事件となってしまうのですね。

人間の感情は、いい人だけが良いことをして、悪い人だけが悪いことをするのではありません。普段は本当に優しくて明るく誰にでも親切な人が、ちょっと魔がさして悪いことをしてしまったがために世間から極悪非道な人のレッテルをはられてしまうこともあるのです。また逆に、普段から極悪非道で外見も言動も暴力的で人に迷惑をかけることが当たり前な生き方をしている人が、何かたまたま、何気なく人を助けたり、社会貢献をしたりすると、あら不思議、世間はその人を英雄のように扱ったりするのです。人間は一瞬で変わる生き物です。

だから当てにはなりません。


でも、皆さまは人の言動に右往左往してしまいますよね。もちろん住職も同じであります。だから、皆さまを教えて導くことなどできないのです。

つまり「師匠」ではないのです。

実は明後日、三十日より十二月三日まで、築地本願寺の常例布教へ九年ぶりに出向させていただくのです。実家寺を退職して初めての出向(コロナ禍で二日代理出向はある)です。それも今は四日間の出向です。過去に経験した三日とは違うのでガタブルです。なるようにはなるのでしょうが九年ぶりって言えば初心者のような気分なのです。築地本願寺新報の案内には「千葉県・大願寺」とありますが、ちょっと違和感がありますよね。何件か質問されたことがありました。

できれば「埼玉県・いるま布教所」ってしてくれたらよかったのにね。

もう私自身は退職しているので関係ないのですが、まだ超法寺は本願寺派に包括されていませんので形式上、〈所属寺〉は僧籍のある実家寺、大願寺となるのです。

問い合わせがありますと、これを毎回説明しなくてはならないので早く包括されるようにならないといけませんね。頑張ります。


ちなみに埼玉県に大願寺というお寺はありませんのでご注意ください。

住職はあくまで、大願寺出身のお坊さんなのです。

早く埼玉組(そ)の正式メンバーになりたいですね。

いるま布教所は開所七年目を迎えました。

過ぎれば早いものですね。

激動の六年間でありましたが、皆さまのおかげにより何とか閉所せずに今も活動できています。今後も入間市ファーストでこの街に根づいていきたいと思います。


私は本願寺派布教使任用されていますので「師」ではありません。

阿弥陀さまのお使いです。この度も精一杯のお使いをさせていただこうと思います。

期間中、YouTubeにて配信されますので気が向いたら視聴くだされば嬉しいです。

恥ずかしいので、現地までお越しにならなくてもいいですよ。

来てくださるならコソッと来てくださいね。

聴聞ですから、手ぶらでお越しください。書いて残すものはきっとございません。

「籠耳」ですからね。


これはどこかでお取り継ぎします、きっと。

先日亡くなられた谷村新司さんの『忘れていいの』にも、「忘れていいのよ、私のことなど」ってありますよね。いいんです。忘れるくらいは阿弥陀さまも想定内ですから。

ま、こんな感じでさせていただこうと思います。


長々と、いつものようになりましたが常例布教への出向のご案内でした。

ナンマンダブツ


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